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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」06 高史明(コ・サミョン) (その11)

※ ↑ 六全協と日本共産党33周年記念式典(写真詳細はページ下に)

(その10)からのつづきからのつづき
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高史明コサミョン──
暴力と愛、そして文学
―パンチョッパリとして生きた (その11)


12)離党


 結婚して5ヵ月ほど経ったある日、夜遅く天三は酔っ払って帰ってきた。そして布団に倒れ込み声も出さずに泣いた。

 その日金天三は地区委員会に呼ばれて行った。合法の事務所だ。
そこで朝鮮人は党を辞めなければならないと言われた。
党中央の通達だった。

 この年1955年7月、共産党は第六回全国協議会を開いて新しい路線に踏み出した。宮本顕治らが指導権を握り、武装闘争を放棄し議会を通しての平和主義路線を取ったのだ。

 一方、朝鮮人団体は同年5月に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が解散し、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成された。
民戦が日本共産党と連携していたのに対し、総連は朝鮮民主主義人民共和国の海外公民として、日本の政治には内政不干渉の立場をとった。
六全協後、日本共産党の党員だった在日朝鮮人は一斉に党籍を離脱した。

 日本共産党は路線転換をしたのだ。
かつて日和見主義と指弾された天三は極左冒険主義と見なされ、次には朝鮮人であることを理由に離党を勧告され、警察への自首を勧められた。

 天三は自首した。
裁判には日本共産党も朝鮮人組織からも傍聴者は来なかった。

 判決は「占領軍命令違反」「外国人登録法違反」で執行猶予がついた。思いのほか軽い刑ですんだ。

 この年の年末、夫妻で下関を訪ねた。
百合子は母があつらえてくれた上等な着物を着ていった。
百合子は天三の父や長屋の人々に暖かく迎え入れられる。
札付きのワルだった天三が日本人の嫁を連れて帰ったというので近所では大騒ぎだった。
百合子は天三の祖母を訪ねる前に、天三の母方の叔母にチマチョゴリに着替えさせて貰った。

三菱重工業下関造船所(奥が江浦工場)
撮影:2013年8月  アップロード: 2020年6月14日 著作者:Ka23 13
CC表示-継承4.0 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%87%8D%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E4%B8%8B%E9%96%A2%E9%80%A0%E8%88%B9%E6%89%80 より


 2年後、下関の父の訃報が届く。
一人で葬儀に行ってきた天三はいっそう暗い顔になっていた。
その頃から山登りをするようになる。
山で転んだとき、このまま滑っていけば死ねるのだと思った。

(その12)へつづく

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◆参考文献

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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
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※ヘッダー写真:六全協と日本共産党33周年記念式典
撮影:1955年7月15日
ソース:毎日新聞社「毎日ムック シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第三次世界大戦」より。
著作者:不明
パブリックドメイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A より


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