「光と風を失った谷端川(やばたがわ)」の巻  街のこころ 大塚ものがたり⑦ 城所信英

いきなり話が大きくなりますが、人類の歴史は川とともにありました。ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河と古代文明は言うに及ばず、国内外の大都市を見回しても、パリのセーヌ、ロンドンのテムズ、ウィーンのドナウ、ニューヨークのハドソン、バンコクのチャオプラヤ、京都鴨川、大阪淀川と、旅先のスナップに必ず写りこむのは川面の風景でありましょう。川無くして歴史も文化も花開くものではありません。江戸東京はもちろん、花の隅田川。
と思い起こしながら、我が豊島区を顧みると、なんと、川も無ければ山も無い! さては歴史も文化も人文不毛の豊島区か?
いえ、そんなことはありません。
隅田川(旧荒川)の運んだ土砂によって造られた沖積平地と、富士・箱根・浅間などの火山活動で造られた赤土の洪積台地との境目にあたる武蔵野台地の東部。西の台地上で伏流水が湧出してできた、井の頭・石神井・善福寺をはじめとする無数の池泉から、中小の河川が流れ出て台地を削り、谷と台地とが入り組んだ複雑な地形を織りなしているのが、豊島区から文京、新宿、港区にかけての武蔵野台地東端部です。豊島区地域にも台地上に水が湧き池ができ、川となって水は流れていたのです。
現在の豊島区の起伏に富む地形は主に三つの河川、谷端川・弦巻川・水窪川によって造形されました。三川ともに武蔵野台地最大河川である神田川に注ぎ込む、いわば神田川の支流です。
しかし今、これらの川の流れを見ることはできません。沙漠の川のように消えて無くなったわけではありません。関東大震災以降、豊島区地域の都市化の中で、「消されていった川」たちなのです。

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豊島区の「母なる川」

豊島区の母体となった四か町のうち、長崎町、西巣鴨町、巣鴨町は谷端川がその成り立ちに大きく関わっています。また高田町は南縁を神田川で区切られ、古くから拓けていた町の北半分は弦巻川が造った「雑司が谷」と呼ばれるまさに「谷の集落」でした。
地図を見ましょう。谷端川は千川駅近くの粟島神社境内の湧水池をその源として、椎名町、下板橋と非常に大胆なカーブを描きながら大塚へと流れ、そのまま東南へ向かい小石川の植物園や後楽園など大名庭園の池を潤しながら、最後は東京ドームの先で神田川に注ぎます。谷端川は知らなくても千川とか小石川と聞いたらピンとくる方も多いのではないでしょうか。
この流れ方を、以前もお示しした豊島区四町村の地図に重ねますと、谷端川が各町村の境界線になっていたのがはっきりとわかります。明治22年の町村制度施行当時、目に見える川がそこに流れていたのですから、それは当然ですね。この一事だけでも谷端川は豊島区の「母なる川」と言えるでしょう。

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谷端川とともに生きた大塚

特に大塚(旧巣鴨村)は、まさにこの川の造った谷に拓けた農村地帯だったのです。
緑豊かな武蔵野の雑木林や江戸近郊野菜を作る起伏豊かな畑地が広がる中を、川が季節を運びながらのどかに流れていたことを想像するのは楽しいことです。前回お話しした大塚の牧場風景も谷端川無くしては語ることができません。
最近すっかり面目を一新した大塚駅北口。その一隅、都電の線路に沿って、ビルの片隅に「瀧不動」が今もきちんと祀られています。ここに谷端川が流れ、人々がその水を大切に考えていたことの名残です。たぶん堰のような小さな滝などもあったのでしょう。

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電車や道を渡す橋もありました。いま大塚の阿波踊りが開催される道路は、煉瓦ガードで山手線をくぐり巣鴨庚申塚で中山道と交わる折戸通りとなりますが、この江戸期から「王子道」と呼ばれた大事な道筋にかかる橋が「藤橋」でした。現在そこは広い交差点になっていて、川が流れて橋があったことなど、誰も知る由がありません。
明治36年、鉄道が敷かれ大塚駅ができ、東京の新しい郊外地として近代化が進む中で、谷端川は農業用水から工業用水へとその役割を変えながらも、やはり人々の生活の真ん中を流れていました。
関東大震災以降の震災復興と急激な人口増大の中で、谷端川は次第に生活排水によりドブ川化、特に下水道の整備が追い付かず悪臭を放つに及び、「臭い物には蓋をしろ」と疎まれ始めます。昭和7年、東京市豊島区の誕生とともに、市が暗渠化工事に着手。谷端川は光を失い風を感じることの無い地底の川となっていくのです。
数年前、豊島区ミュージカルを上演する劇団ムジカフォンテが、そんな谷端川と人々の営みを「あの川そこの川」と題したファンタジーで描き、とても感動的でした。
次回は、水力発電所があった!お話から続けましょう。

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