鬼滅の刃が少年漫画としてダメダメな理由

 まず断っておくが私は原作読んでない。アニメのシーズン1を二十数話みただけだ。だから今公開されている全編でこの指摘した部分が改善、あるいは合理的必然性が出てきているのならスマン。
 さらに言えば、私は生まれてから今日まで57年間テレビアニメとともに生きてきた、いわば強力な理解者であり擁護者だと自認しているものである。
あらすじに触れておこう
 舞台は大正時代の日本、 鬼と呼ばれる妖怪のようなものが人を襲っている。
この鬼は人を食べる。そして一部の鬼は襲った人を鬼に変え仲間を増やす。鬼は基本的に不老不死、切られても再生する。太陽の光を浴びると消滅してしまう。吸血鬼と妖怪とゾンビを合わせたような存在だ。この鬼を殺すには特殊な刀で首を切り落とすしかない。この刀を持ち鬼を退治しているのが鬼殺隊という何らかの政府機関?のような集団だ。
 主人公のカマドタンジロウ(登場人物の名前がみんなヘンテコでしかも昭和の暴走族の落書きみたいな読めない漢字だ)は12~3歳?母子家庭、6~7人兄弟姉妹の長男。貧乏農家の大黒柱。彼が外出中のある夜、鬼に一家は惨殺されてしまう。一人生き残ったいもうとネズコは鬼になってしまっていた。タンジロウは鬼になった妹を人間に戻すため厳しい修行の耐え、鬼殺隊に入り鬼を倒し仲間とともに旅をする。ま、こんな話。
まずどこからいこう。
 やたら人が死ぬ。鬼も死ぬ。鬼は人を殺して食べるんだが、惨殺したり猟奇的快楽殺人だったり、若い娘だけねらったり。鬼は、人間だった頃の記憶があったり、記憶はなくてもトラウマがあったりでそうなるのかもしれない。鬼だからというだけかもしれない。
が、そんなわけでやたら残虐に殺される。血しぶきもやたら描かれる。欧米では血はタブーで年齢制限も厳しい。鬼も惨殺される。鬼は妖怪じみた姿もいるが、人の姿のままも多い。首を切り落とさなければ死なないから、酷いやられ方する。そして首を切り落とされる。だがその時、なんでこうなったのかと後悔したり、人間だったころのトラウマストーリーを思いだしたりする。そして子供剣士に首を切り落とされる。殺されて救われた的なやつもいる。もうダメでしょ。
 そもそも鬼は人を殺すといっても食べるためで、人を襲う野生動物みたいなもんだ。それを退治する動機付けのために、ことのほか残虐に人を殺すように設定するしかなかったのだろう。主人公たちは鬼に恨みはないが、人に害を及ぼす。しかも殺された人たちが「かわいそう」な殺され方をしなければ、いい子のタンジロウが哀れな鬼を命がけで殺す動機が希薄すぎるからだろう。そんなこんなで必要以上に残虐に殺す。またタンジロウが所属する鬼殺隊のメンバーもバタバタ殺される。鬼の強さを表すにはそうならざるを得ないということなんだろうが、みな子供だぞ。タンジロウが参加した鬼殺隊の試験もひどい。鬼のいる山に放り出され生きて帰れば合格。で子供らがみんな死ぬと。いや良くないでしょ。
少年漫画で殺戮シーンの多いものだってある。北斗の拳なんか殺すだけじゃなく爆発したりする。この話の設定で思い出すのは、手塚治虫の「どろろ」とか、ジョージ秋山の「アシュラ」とか、残酷な表現では永井豪の「デビルマン」とか、たしかに少年漫画でも今までなかったわけじゃない。しかし青年誌との住み分けが無かった時代の青年向けだったり、漫画的表現で残酷さを薄めたりSF、ファンタジーという世界観でリアリティーを下げることで、少年の心理に対するバッファーになっていた。
それに比べ、鬼滅の刃では上記のようにファンタジーの設定で逃げられるところを逆に追い込んでしまった。プリキュアみたいにだってできたはずだ。また主人公を低年齢に設定したことにより、同年代読者が共感しやすことも問題になってしまう。
 この話の企画はドラゴンボールやワンピースのような冒険アクションと同じような立場のはずだ。基本的に死なないケンカでライバルと和解し仲間を広げるような話のポジションに殺戮少年をもってきてしまったのだ。やっぱダメだろ。

 さらに、この漫画には古典的ジェンダーバイアスが散りばめられていて、非常に不快だ。この作品の時代設定は大正時代だが、これはストーリー上必然ではない。少年が刀を振り回す舞台に適当だっただけだろう。同じような時代設定の話に、野田サトルの「ゴールデンカムイ」という漫画があるが、こちらはアイヌと日本人の再遭遇の物語で、実在の登場人物や日本が開拓入植した北海道自体が重要な舞台。時代背景にも必然性がある。当然、当時の価値観やアイヌ差別も描かれなくてはならない。だが鬼滅は時代設定に意味はない話で、出てくる世界も特に時代考証がされているわけではない。ことさら大正時代の価値観を重視する必然もない。なのにだ、冒頭から、長男だから家族を養う、とか男だから妹を守るとか、男だから戦う、男だから勝たなきゃいけない。男だから、男だから、ああ、もううんざりだ。これが今の少年漫画なのか?昭和50年代じゃないんだぜ。
 さらに登場する女性キャラクターたちがひどい。まずおそらくヒロインの位置付けの主人公の妹、ネズコ。名前からして酷いが、鬼化しても人間を襲わない特異な存在。でも力は鬼並で鬼と戦う。人を噛まないように竹の猿ぐつわをされている(ひどい)。兄を認識し守る以外は明確な自由意思はなく(ゾンビのように)、強烈な暗示により、人間を家族と認識し鬼から守る。悲しすぎるしひどすぎる。

可愛くて脇役の恋慕の対象だが本人は心がないので対等の恋愛対象にはならない。もろ古典的少年漫画のトロフィーヒロインだ。そして主人公とは兄妹でこちらも恋愛対象にならない。少年漫画のヒロインを登場人物の恋愛対象から外してしまうのは、編集側のあくどい仕掛けを感じる。つまり永遠の処女性を担保し少年読者のアイドルにしたいのだろう。しかしそれは女に人格はいらないという形になってしまった。これも古典的男性目線だ。
主人公の周辺にいる仲間の剣士の女性もパーソナリティー障害のような心がいかれたあるいは壊れた娘ばかりだ。周辺の一般女性は男に従う古典的女性像か母親属性。開明的な女性は皆無だ。ハイカラさんはいないのだ。(そういえば大和和紀の「ハイカラさんが通る」の最近の版の差別表現等に対する断り書きが秀逸で話題になった。それに比べてこの作品の編集者はあまりにも時代遅れだ)
鬼にも女性は出てくる。蜘蛛のような鬼の一家では、女性たちはリーダー格の息子にハラスメントとDVで支配される母親と妹だ。ゲーッ!
そして、主人公に殺される時。苦悩や苦痛から解放される?ような展開に。主人公は殺すことで呪われた鬼を浄化し救う救世主?冗談じゃない、それじゃオウムだ。
とにかく古典的ステロタイプな父権的ジェンダー感がが無邪気に展開されすぎる。これは子供の意識に対し危険すぎる。
またサブキャラの女性の扱いには作者の歪んだ怨念すら感じる。何かのコンプレックスの投影なのか。
 もう一つ酷くまずいのは、主人公が完成された良い子だという点。少年漫画は主人公の少年は未熟でガキが経験をつんで成長し人格を形成するイニシュエーションストーリー、成人譚だ。だがタンジロウはすごく真面目で良い子なのだ。迷いもなくまっすぐ、努力家で頭もいい、激昂するのは妹のことだけ。今でいう出来上がっているのだ。そんなタンジロウは、何の疑いもなく鬼を殺しまくる。先輩剣士を崇拝、師匠の天狗面親父も崇拝。疑うこともない。これが怖い。まるでクメールルージュやISに育てられた少年兵のような怖さだ。
この師匠も変だ。年端もいかない子供達を訓練し、先述の生き残れないテストで何人も無駄死にさせてきた。なのにその子供達(霊)もタンジロウも良い人だと崇拝する。酷く気持ちが悪い。
周りの仲間も剣士の先輩も人格が破綻している奇人変人ばかりだ。鬼よりこいつらの方がおかしいくらいだ。しかもそいつらが腕が立つというだけで、尊敬を集めている。腕っ節が評価され人格者が評価されない体育会系の世界だ。でこの幹部連中は、下の鬼殺隊士を雑魚扱い。死んでも歯牙にも掛けない。隊士も隊士で、何の利益もないのに命がけで鬼に向かう。少年少女たちは使い捨てだ。この狂い方は旧軍の投影なのかもしれないが、さしもの日本軍だって大戦末期までは少年兵など使わなかったぞ。
 アニメならではの問題もある。主人公たちのパーティーは年中喧嘩している。先輩からも殴られたりするのだが、漫画ならポカスカだがアニメだと何度も拳骨で殴られる。これが冗談シーンでも何度も殴る。ダメだろう、今どき。
この殺伐とした展開を薄める意図なのか、途中で二頭身キャラのギャグパートが入っている。ここがあるために子供が喰いついてしまう。同じようなギャグ混じり展開をする漫画に荒川弘の「鋼の錬金術師」がある。死んだ母を甦らせるため錬金術を試して失敗した兄弟は、兄は手足を弟は体全てを奪われ、いつかそれを取り戻すため軍に所属し、人間の魂から作る賢者の石で反乱を企てるホモンスクルと呼ばれる人造人間たちと戦う。こう書いてみると鬼滅はハガレンに相当インスパイアされているな。でもハガレンの主人公は苦悩しトラウマも実際の身体の欠損も家族の過去や多くの犠牲者、敵の苦しみも悲しみも背負って成長していくわけで、その質は全く違う。

 見てきたように、鬼滅の刃は、構成要素は既存の少年漫画と同質のように見えるが、同じ材料でも建てつけ、構成、設定の素性が悪すぎて、低質なメッセージばかりが発せられている。
・その残酷さ、表現はもとより必然性において著しく正当性にかけ、無邪気に殺戮を容認させる点
・ジェンダーイコールの視点が全くなく。古臭い父権的女性蔑視と少年漫画的女性軽視が色濃く盛り込まれていて危険なほど時代遅れな点
・主人公が殺戮行為に疑問を持たず、後悔や反省もなくそれをかっこいい演出に仕立て、殺し合いをスポーツのように見せている点。
・アニメ演出の不作為によりそれがさらに強調されてしまている点
等々、現代の漫画としてひどく欠陥を抱えた作品である。

 こんなに欠点のある話が、メジャーな少年漫画紙に掲載され人気が出て、アニメ化されてしまう。この事態に日本の漫画文化の劣化を感じる。
良く知られるように、商業漫画は作家が単独で作るものではない。担当編集者と二人三脚で作られる。企画の段階、シナリオに当たるネームの段階等でチェックが入ってしかるべき制作体制だ。また連載なら、問題があれば方向修正も可能である。真っ当な編集部、編集長ならどこかでこの作品の問題点に気付くはずだ。それが機能しなくなっているのか。
 またアニメ化では漫画の比では無い大勢が制作に関わる。どの段階でも当然コンプライアンスのチェックは入る。しかしそれが機能した形跡がない。気が付いた人はいなかったのか?何かがおかしくなっている。もちろんチャレンジする作品ならそれはいい。でも少年漫画の王道的作品がこのようなザルなのはおかしいし危険なのだ。

青年誌でこの手の話をやるのは全然構わないと思う。また当然創作には制限をしてはいけない。ただTPOはあるのだ。作品自体がダメなのでは無く、メジャーの少年漫画雑誌の連載はそれではいけないのだ。

 漫画編集もアニメ業界も気をつけないと取り返しのつかないことになる。ジュブナイルや子供向けの作品は気をつかうべきところにはちゃんと気をつけなくてはいけないのだ。それが大人の役目だし先人たちはそうしてきた。そうしないと存在自体が崩壊しかねない。

関係者はもっと危機感を持って欲しいし、人権団体、女性団体などは、漫画編集者やアニメ制作者をターゲットに啓蒙活動を仕掛けて欲しい。(了)

追記:こんな書いてみました

いろいろ反応ありがとうございます。でも期待していた反論が思いの外少なくて

追記2:冒頭で57年間などと書いたのは、一種の謎かけで、
この記事は2020年10月に書きましたが、なぜ昭和38年生まれとか、50代後半のじじい、とかじゃなく57年間と書いたかというと、57年前、昭和38年(1963年)1月1日 鉄腕アトムテレビ本放送が始まりました。つまり私は日本のテレビアニメと同い年っていうわけ。(実際は12月生まれなので一年遅れですが、物心ついた頃から、っていうことでそこんとこよろしく)

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