ボトルメールにロックンロール

 私が今でも「絶対に誰にもわからない」だろうと頑なに信じている、とても大切な記憶がある。

 どうせ誰にも届く訳がないと思っているのに、何故誰にでも読めるような形で文章を公開しようとしているのか、本当はまだ知らない振りを続けていたいのだけど、実は先日個人的にとても嬉しいことがあった。だからかもしれない。私は今、多分調子に乗っている。本当は、どこかの誰かに届けばいいのにと思っていたことに気付いてしまった。

 読んでも、読まなくても良い。わからなくても全然構わない。今からするのはそういう話だ。


 私が敬愛してやまない人物の一人に、永田泰大という人がいる。彼が誰かというと、私が小学生だった頃愛読していたゲーム雑誌でコラムを連載していた編集者だ。どうだろう、もうこの時点で多くの人は意味がわからないのではないだろうか。

 まず小学生がゲーム雑誌を愛読していることが理解できない、さらにコラム記事まで読み込む感覚が理解できない、挙句雑誌の編集者をフルネームで覚えているレベルで好きというのはもう訳がわからないのではないだろうか。

 だけど私は[そう]だったのだ。
[そう]だったのだから仕方がない。

 そのコラムはゲームをプレイする中で、ふとこぼれてしまった意味不明な独り言、例えば
「熱ッ!熱くない!」とか、
「本棚にぶつかりてー!」とか、
「バカヤロウ!自分がバカヤロウです!」とか。とにかく全く、全然、これっぽっちも意味のわからないことを口走る人が、どんな状況で何を思い、どうしてその言葉を発するに至ったかを面白おかしく懇切丁寧に解説してくれるコラムだった。

 そのコラムで、ある時実況パワフルプロ野球というゲームを大好きな人達が、パワプロは面白いよなという話で盛り上がっているだけの回があった。
 共通のゲームを大好きな人が集まって、大好きなところをいかに大好きなのか、やいのやいのと語り合い、締め括るように一人が言う。

「やんない人もやればいいのに」

 それを読んだ時、私は「わかる」と思った。
断っておくが私はパワプロをプレイしたことが無い。どころか野球に限らずスポーツ全般に全くと言っていいほど興味が無い。
 だというのに私は思った「わかる」と。
どうしてなのか?
その気持ちを知っているからだ。

 人生で一度は経験があるのではないだろうか、
複数人で会話をしている時、自分の知らない話題が始まり、なんだか凄く盛り上がっているけれど全く全然理解出来なくて、置いてけぼりになってしまったことが。
 あるいは自分の好きなことについて、どうして、どこが、どんなふうに大好きなのか語っていたら、白けた反応を返され、急に自分の好きなものの輝きが薄れてしまった瞬間が。

 私にも昔、そんなことがあった。そしてその時私は思ってしまった。
私も皆の話をわかれば良いのに
私も皆と同じものを好きなら良いのに
皆が私のわかることだけ話せば良いのに
皆が私と同じものを好きになれば良いのに

 私は皆が自分と違うことを呪った
なんてことを考えてしまったのだろうか
なんて醜い感情だろうか
それはあまりにも後ろめたい感情だった
だから無かったことにした

 そんなことを考えたとはおくびにも出さず、皆と同じものを好きなフリをした。皆が話していることを調べて自分も興味があるフリをして、皆の話がわかるフリをしたのだ。 
 結局そんなのは上手くいくはずもなく、私が好きな物は相も変わらず好きなまま、好きになりたかったものは好きになれないまま好きになる努力をやめてしまった

 そんな醜くて後ろめたい呪いのような感情を、見た事も会った事もない赤の他人が、面白おかしく物の見事に表現してみせた。

「やんない人もやればいいのに」

 あぁ本当にそうだ、私もそう思う。
あなたと同じものを見て、あなたと同じことを感じて、あなたと同じものを好きになって、あなたと同じことについて同じように夢中になって同じように語り合いたかった。
 あなたもそうだったのだろうか?
私と同じように、あなたも皆が同じなら良いのにと思っていたのだろうか?
 あなたも本当は苦しんでいたのだろうか?
私と同じように、皆に見せないように消せない呪いを隠していたのだろうか?

 その瞬間、知らないゲームの知らない話をしていた知らない人達が、とても親しい隣人のように思えた。しょうもないことに馬鹿みたいに夢中になって、勝っただの負けただの泣いたり笑ったりまったく仕方のないやつらだな、と。
 今までどうしても許せなかったのが、まるで嘘だったみたいだ。なんだ、全然大したことなかったじゃないか、とこんなに簡単に笑い飛ばせてしまえた。

 あの時の延長に今がある。
あの時感じた救いと受容が、今の私を形作っている。
 誰も理解できなくてもいい、理解できてたまるものか。誰に否定されても絶対に揺らがない。
この記憶が私だけの大切な価値観の根源だ。

 こういう、どうせ誰にも届く訳がないと今まで身の内に仕舞い込んできたことをこれから少しずつ綴ってみようと思う。
 Twitterに流すにはあまりに個人的且つあまりに長くなり過ぎる、自分だけで抱えて生きていくには大きくなり過ぎた思い出や、感情や、いつか忘れて失ってしまいそうなあれこれを、ボトルに詰めて流すように自分のために書いてみよう。

 読んでも、読まなくても良い。わからなくても全然構わない。そうなんだから仕方がない。
 だけどいつか、どこかで誰かに何か少しでも届くものがあればいい。
 これからそういう話をしていきたい。

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