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武田信虎(信玄の父)がおこなったまちづくりとは?〜全体像の紹介+「甲府」開府編


今回は、甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)と山梨県立博物館に伺い、武田信虎のおこなったまちづくりについて取材しました。今回の企画では、過去の山梨のまちづくりを学びながら、令和の山梨のまちづくりのヒントを探していこうと思っています。全2回でお届けしていく予定です!

今回扱うテーマと取材していく理由

私たちはこれからも山梨の活性化やまちづくりに携わっていきたいと思っています。しかし、「山梨のまちづくりの歴史」についてあまり知らないことに気づきました。そこで前回は、武田信玄のまちづくりを取材したところ、「信玄のまちづくりの礎を作ったのは、信玄の父の”信虎”であること」を知りました。そのため今回は、「武田信虎」を取材していくことを決めました。また新たに「過去の山梨のまちづくり」を知って、現在にも活かしていきたいです。

武田信虎がおこなった2つの主な取り組み


武田信虎がおこなったまちづくりは、大きくは2つあることがわかりました。この章では簡単に紹介し、今後の段落で詳細を深ぼっていきます。

◼︎甲斐の国をまとめ「甲府」開府
当時バラバラだった甲斐の国をまとめあげ、居館(住まい)を石和(現在甲府市川田町)から躑躅ケ崎(つつじがさき)(現在の甲府市武田神社周辺)に移し、開府しました。また、要害城などの館を囲む要地に防衛施設を作りました。

◼︎城下町整備
居館の周辺に、家臣の集住や社寺の配置などを行い、城下町を作り、権力集中を実現しました。

甲斐の国をまとめ、地の利を活かした開府

信虎は、永正16年(1519年)、居館を石和(現在の甲府市川田町)から躑躅ケ崎(つつじがさき)(現在の甲府市武田神社周辺)に移し、当時バラバラだった甲斐国を一つにまとめ上げる拠点としました。
甲府の名前の由来として、「甲斐国の中心=甲斐府中⇒省略して甲府となった」という一説もあるそうです。

もともと居館にしていた石和は、笛吹川の旧流路に近く氾濫が多く、水害に悩まされる地域でした。そのため館を移し、三方を山に囲まれ、南には甲府盆地が開けているという、「要害(ようがい)の地」を選んだと言われていいます。このことから、政治・軍事・経済の中心となれる安定した都市整備が可能なエリアとして、選ばれたと考えられます。

(画像)国土地理院「地理院地図」より作成
※現在の武田氏館跡周辺を見ても、山と川に囲まれた地形であることが分かります!

その後は、甲府を守るための城郭整備を行いました。居館の北東2.5kmの積翠寺丸山に要害城(武田氏の本城と言われている)を築き、さらに甲府の入り口となる湯村山や一条小山などに、館を囲む要地に防衛施設を作りました。

一方で、移転したが水害は甲斐国を統治する上で避けられない課題であり、その後も発生してしまいました。結果、水害対策として、信虎は信玄堤の建設に着手し、信玄が完成させることとなりました。(⇒信玄堤については、信玄のまちづくりの記事へ!

次回について

次回は、「城下町整備」と「取材の感想」について詳しくお伝えしていきたいと思います!お楽しみに!

本記事のライター

望月優那:山梨県韮崎市出身。韮崎高校を卒業し、県外の大学に進学。現在は、山梨県内でまちづくりに関わる仕事に従事。学生時代からトップファンに所属。まちづくりに関して、官民学連携や地域住民による草の根活動などに興味があり、本メディアでライターを務めている。

望月南海:山梨県韮崎市出身。韮崎高校を卒業し、現在は実践女子大学4年生。トップファンに所属し、FM八ヶ岳のラジオパーソナリティを務める。教育、子ども、地域活性化に興味があり、本メディアでライターを務めている。

高村大夢:山梨県山中湖村出身。韮崎高校卒業後、都内の大学に進学。現在は、山梨県内で生活しながら、東京都内の企業で非営利団体の資金調達のサポートに従事。大学時代に学生団体トップファンを立ち上げ。
本業で社会課題解決のサポートに携わっているが、「山梨ではどんな状況なのか、もっと知りたい」と思い、本メディアでライターを務めている。

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