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京都〜日光を9日間で走った話2024(その9)

よく、「軽井沢という名前は、開発のために小洒落た名前にすべく昭和になって付けられたのだ」と言う人を見かけます。
確かに、その隣の沓掛、さらに隣の信濃追分、という町名に比べるといかにも現代的かつセレブの味わいがする町名で、おかげで軽井沢とは縁もゆかりも無い群馬の山にまで北軽井沢などと名前をつけて無慈悲な開発が行われているほどです。

しかし、今から300年以上前、中山道の発祥時点からここには既に「軽井沢宿」という宿場町が設けられ、峠を超える前の休息地点として大いに賑わっていたことには言及しておかなければなりません。

翻って令和の現代の軽井沢の実情は皆様もご存知のとおりです。たかがアパホテルに泊まるのに一泊3万もかかるという途方もない価格設定は、我々現代の例幣使には非情と言わずしてなんと言ったらよいのでしょう。そのようなわけで軽井沢の10キロ以上手前に宿を取った私は、前日の感動を胸に早々に就寝に入りました。

ちなみに、我々にとって軽井沢の朝は猛烈に早いということは申しておかなければなりません。草原の心地よい小鳥のさえずりに目を覚まし、白いテラスでモーニングコーヒーを飲むなどという悠長な行為はもちろん許されず、円滑な行程のためには日の出とともに宿を立ち、朝7時前には軽井沢を抜けるという方策を取ることは必定です。
その掟に従うべく私は4時に起床し、無料の朝食券には目もくれず5時には宿を立ちました。途中「いかにもセレブ」といった出で立ちでジョギングするポニーテールの女性に何度か遭遇しましたが、さすがに三度目の出走ともなるとそのようなものに目を引かれる私ではありません。無事碓氷峠の頂上に9時前に降り立ちました。

碓氷峠頂上にて。この下に長野と群馬の県境のラインが惹かれている。


ここからが問題です。今日の予定は全9日間最長の90キロ。しかも気温はぐんぐん上がり夏日になる予報も出ています。
とはいえ、去年食べ損なった横川の峠の釜めしを食することは欠かせません。碓氷峠の長い山道を下り、碓氷関所の見学を終えた私はさっそく峠の釜めしを食するために横川駅前に馳せ参じました。「1300円です。」現金を支払って釜飯を受け取った私は、駅前のベンチに腰を据えて蓋を開け、少し遅い朝食を口に運びました。

美味い!

秘伝のダシで炊き上げた自家精米のコシヒカリの上に、色彩豊かな9種類の具材が鎮座されたその色彩もさることながら、一口食したその瞬間に四季折々の日本の原風景が鮮やかに映し出されるその味わいはまさに食の世界のレオナルド・ダ・ビンチ。全身の津々浦々までたちどころに滋養がゆきわたり、力がみなぎって来ることがわかります。そしてその色とりどりの味わいをしっかりと包み込む重量感のある益子焼の土釜。なんと素晴らしい、なんと美味なるお弁当なのでしょう。

しかし、かつて高速道路のサービスエリアで食した際には、ここまでの美味しさを感じたことはありませんでした。

今やサービスエリアでの販売が主戦場となった感のある峠の釜飯ですが、かつてはここを通る信越本線の特急の窓越しに販売されておりました。新幹線や高速道路で一瞬のうちに通過するのではなく、蒸気機関車の重連編成が懸命に坂道を登る。その機関車に揺られながら、ゆっくり窓の風景を楽しみながら食する釜飯。さぞやその味は格別だったに違いありません。現代人が忘れてしまったスローモーションのような時の流れの中で味わう日本の味。まさに自らの足で碓氷峠を超えてきた例幣使ランナーはそれを体現しているのだ、だからここまで美味に感じることができるのだ。そう私が感じ取ったとしても一体誰が否定することができるというのでしょう。

来年もまた、この味を確かめに来たい! 

みなぎる力をその糧に私はその日残りの45キロを走破し、無事夜23時前に今日の目的地である境町に到着しました。2年前に大いなる感動を分け与えてくれた駅前のガストは既に閉まっており、ホテルの門限の10分前、大浴場もあと5分で終わるという危うい中の到着でありましたが、釜めしの感動に比すればなんということはありません。私はこの1年、強く生きて行けそうな気がします。VIVA!峠の釜めし。ありがとう峠の釜めし。

栄光のゴールまで。あと110キロ。

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