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「MFゴースト」のタイトルの由来についての考察

 今回はいつもと趣向を変えて「MFゴースト」のタイトルの由来について、私の考察をちょっとお話ししていきたいと思います。

「MFゴースト」というタイトルの由来について、作中では明らかにされておりません。当然、唯一の正解は作者の頭の中にあるのみとなるので、これからの内容は私の妄想であることをご承知おきください。

 この作品の主な舞台となっているのが、富士山の麓で開催されるレースイベント「MFG」です。「MFG」と「MFゴースト」。似てますよね。
 この作品を読みはじめたとき「MFG」は「MFゴースト」の略なのだと一瞬勘違いしてしまいました。
 ただよく考えると「MFG」はレースイベントの略称ですから、普通なら「ゴースト」がついているのは考えにくい。
 じゃあ「MFG」はそもそも何の略なんだろうと作品を読み返して確認しても、言及している箇所はないのです。個人的には、作者が意図的に説明していないという印象を持っています

 先に「MFG」が何の略なのか考えていきましょう。
 「MFG」が富士山大爆発の被災地復興をテーマにしたレースイベントであることは作品中に明記(12巻11ページ)されています。これを踏まえると、インターネット等で多くの方が既に書かれてますが、最初のMとFはおそらくMount Fuji、富士山のことだろうと。私もこの説を推すところです。

 最後のGについては諸説あるところですが、私は「グランプリ」が一番もしっくり来るかなと思っているところです。「Mount.Fuji Grand-Prix」、富士グランプリですね。
 他に「Granturismo(グランツーリスモ)」+〇〇なども考えられますが、この辺は推理の材料が少ないのでひとつに断定は難しいところです。

「M」と「F」がMount Fuji でないかと仮の結論を出したところで、タイトルの考察に戻りましょう。
 タイトルのGはゴーストとなっています。これは何を意味しているのか。

 ここでどうしても押さえておくべきは、前作「頭文字D」です。
「頭文字D」の中で「ゴースト=幽霊」という言葉が印象的に使われているシーンがあります。
 それは秋名山中で高橋啓介がはじめて藤原拓海と出会ったシーン。拓海にあっという間に抜きさられた啓介は
「オレは秋名山で死んだ走り屋の幽霊でも見たのか…」(1巻74ページ)と茫然とします。
 その他にも「出てこい 秋名の幽霊」(1巻94ページ)「秋名山には幽霊が出るだろう。鬼みてぇにバカっぱやいハチロクの幽霊さ…」(1巻105ページ)と何度か幽霊という言葉を使っています。

 この「幽霊」は、とてつもなく速いが誰も存在を知らないという当時の拓海の状況を表す比喩ですが、単純にそれだけにとどまるものでもないと私は思います。

 それを示すのが、物語のクライマックス、最後の乾信司とのバトルに臨むときに、啓介が拓海にかけた言葉です。
「オレのカンではおまえめっちゃ苦戦する」と互角のバトルを予想した上で
「けどおまえが負けるとは思わない なぜならおまえも昔は幽霊だったからさ 今は足がある だからおまえは負けないよ…」と拓海の勝利を予言します。

 この台詞の「おまえ"も"昔は」から、啓介が
・バトル相手の乾信司を"幽霊"と捉えている
拓海は以前は"幽霊"だったがいまは"足がある"から幽霊ではない
と考えていることが読み取れます。

 啓介が"幽霊"といった頃の拓海はどんな存在だったか。
 父親の指示で、13歳の頃から無免許で早朝の豆腐配達で車を運転し、父親の導きと日々の反復で卓越したドライビングテクニックを身につけた。しかし、無免許で公道を運転するという非合法の存在であったために、本来なら周囲から賞賛されるであろうその才能と技術は知られることなく誰にも知られていない。これは乾信司も概ね同様です。

 18歳になり免許を取得した拓海は、作品を通じて、バイトの先輩たちや、走りに信念を持つ幾多のバトル相手、啓介や涼介をはじめとしたプロジェクトDのメンバー達との交流や、異性とのセンシティブな思い出など、様々な経験を通じて成長していきます。

「頭文字D」は車のバトル漫画として評価されますが、一人の若者の成長物語としての側面も忘れてはなりません。描かれる女性像への批判などもありますが、当時の若者の多くが経験した、年上の人間との交流を通じて、大人たちが作っている社会のことを徐々に知り、社会の中の存在としての自分を自覚する過程がリアルに描写されています。

 車で走ることやバトルすることに何の意味も見出していなかった拓海ですが、この成長の過程で、自分の才能と技術が卓越したものであると自覚し、他人の期待を受け止めそれに応えたいという気持ちを持つようになります。
 最初、天然でどこか無気力さも感じさせた拓海のキャラクターは、物語が進むにつれ、輪郭が明確になり、走りに対する強い意志を持ち、自分が拠るものを見つけ、自分の立つ位置を見つけた存在として、物語のクライマックスを迎えます。

 この成長の有無が、まだ"幽霊"である乾真司との違いであり、啓介が"足がある"と言ったところだと私は思います。

 すっかり「頭文字D」の話が長くなってしまいましたが、本題の「MFゴースト」に戻りましょう。
 タイトルの「ゴースト」とは何か。
 ここまでの長いおしゃべりにお付き合いくださった方はもうお察しのとおり、これは主人公である片桐夏向のことを指しているというのが私の考えです。

 カナタは、拓海と違い、幼少の頃からその才能を周囲から注目されていましたが、母の病と死に遭遇する中で、そのショックから走ることをやめ、才能を惜しむ周囲の慰留も振り払って引きこもってしまいます。
 そうカナタもまた、自分の才能に価値を見い出せずに、走る目的を見失い、自分が立つ場所を見失った「ゴースト」だったのです。

 そんなカナタが拓海の勧めもあって来日し、レンと出会い、父の国で自分の知らなかった父と母の姿を知り、MFGのレースを経るごとに自分の中に息づく才能と走る情熱を再確認し、レーシングドライバーとして再生する。

 片桐夏向という若者の喪失からの再生の物語。それが「MFゴースト」という作品のメインテーマだと私は思っています。
 ですので「MFゴースト」というタイトルをあえて説明するなら、「富士の麓に降り立った幽霊の(再生の)物語」となるのかもしれません。

 あえて蛇足を付け足すなら、同じように走る意味を見い出せていなかった「準」ゴースト的な存在のベッケンバウアーや沢渡も、カナタとのバトルを通じて、劇中でその心情を変化させつつあることも触れておきたいと思います。

 また「MFゴースト」というタイトルには複数の意味が込められているとも考えています。

 この作品を奥深いものにしているのが、藤原拓海の存在です。
 前作のファンにはたまらないところですが、名作「頭文字D」の登場人物が様々な形で登場します。
 しかし、これを書いている2024年1月の段階で、高橋涼介も啓介も作中に登場していますが、藤原拓海だけは劇中でその姿をはっきりとは見せていません(扉絵に後ろ姿が書かれたことはありますが)。

 藤原拓海は事故によりドライバーとしてのキャリアを絶たれた設定になっています。強い表現を使うならドライバーとしては死を迎えている。彼の走りを本格的なレースで見ることはおそらくかなわない夢なのでしょう。

 その藤原拓海の薫陶を受けたカナタが、かつて拓海が四つの防衛戦のバトルを繰り広げた神奈川県に降り立ち、師を彷彿とさせる走りを展開する。

 その意味では、若干日本語的なニュアンスになりますが、ゴーストライターという言葉のように、「ゴースト」を"分身"的なニュアンスで捉えるなら、「MFゴースト」というタイトルを「Mr Fujiwara の Ghost『分身』(の物語)」と捉えることもできるかもしれません。

 冒頭でもお話したとおり、真相は作者のみが知るところですので、素人の一つの考察としていただければ幸いです。また、似たような推測を述べている方は他にもいらっしゃいますので、特に私が編み出した新説でもありませんので、ご承知おきください。

 「MFゴースト」を楽しむ一助となれば幸いです。では。