転がる

くるみは退職願を提出した。上司はいつもの他のネタと同じように、どこか舌舐めずりできるうまい箇所はないかとなめまわすように案件に目をやり、蛇のように語った。社長もいつも通り、そわそわと悪巧みを仕掛けるために姿をくらましてはまたあらわれ、どこまでも話をはぐらかそうとし続けた。

 私はたしかに、仕事をした。事を終えてくるみはそう振り返った。社長のはぐらかしも、上司のねちねちとした絡みつくようなマウンティングも、今や私は全てをかいくぐり、障害物競争を楽しむかのように、目的に向かってコントロールすることが出来たのだ。

それは、父と母のために、兄姉と戦った経験によるものだった。

会社を辞める、その決断を実行する前と、後。

言い古された表現だが、たしかにその前と後では世界がまるで変わった。別世界だった。

くるみがさらに実感したのは、父の死。

とうとう私は父の死さえもはねのけて、会社を辞めたのだ。最後まで、仕事はどうだ?ちゃんとやってるか?と、まるで幼い頃から教えられた唯一の言葉のように、父は死ぬまでその言葉を繰り返した。おそらく父自身が自分にかける言葉も、生まれてから死ぬまで、仕事をちゃんとやらねば、という一語だったんだろう。意味もなく、もぬけのからになった言葉の破片は、まるで呪いのように父から全ての意欲、生気、父らしさを、自ら奪い続ける呪いとなった。父の死後に知った父の勤務中の写真のなかの表情は、まるで親のために自分の役割を演じる舞台俳優のようだった。そのものだった。父はもともと俳優なみの美男子だったことも無関係ではなく。

話がそれた。

退職願を提出したその夜、くるみは死んだように眠った。アラームさえもかけ忘れて、こんこんと眠った。朝納豆をトイレに流しきれない歯切れの悪い夢を見て目覚め、恋人からのメッセージに目覚めた。

私は一つ、呪いを外した。だがそれは同時に、自分の最後の砦を手放すことにはならないだろうか?新たな不安がおずおずと姿をあらわし始めた。ブコウスキーはポストオフィスの過酷な状況下で人間性を保つために戦い続けたことで、創作の意欲を培ったのではないのか?

呪いのくびきから逃れた、何を目指して?

どう転ぼうと、とにかく物語は始まる。そこにはもはや、壁はない。乗り越えたのか、崩したのかはこの際関係ない。水が溢れて堤防をてっかいしたのか、道なき道か、それともたくさんに枝分かれした豊富な選択肢の道が広がっているのか、それもこの際関係ない。

ただそこにはもう、壁がない。

そして風は背後から吹いている。

そう、目的があろうとなかろうと、前に進むだけなのだ。

この前に進むことができる、このことだけでどれだけ嬉しく、喜びにあふれるか。くるみはまさに、ナチの収容所の囚獄のままだと自身を振り返った。今はまだ、やっと自由になった外の空気に慣れるだけで精一杯だ。身の安全を守る必要のない穏やかな時間に、疲れがとめどなく流れ出続けている。

その先に自分がどうなるのか。

どうとでもなればいい。

とにかく私は決断し、それを行動に移した。行動にうつす権限を、自分に与えた。ただその事だけがくるみにはとてつもない恩恵として我が身に暖かくのしかかり、その重みのもとでしばしの休憩をとるしか、今は出来なかった。またそれが、何よりの褒美と実感であった。

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