久々に学級会で研究授業やった話
4年ぶりくらいに市の研究会で学級会の研究授業をさせてもらった。
僕の自治体は特活を熱心にやっている人は少なく、学級会を年間通してやっている人はほとんどいない。そんな中での研究会だが、ここ数年は徐々に特活の魅力に気づいて集まってきてくれる人たちが増えてきた。そのような中で、学級会初心者の先生たちに実際の授業を見てもらうという趣旨の研究授業だった。
今回話し合ったことは至ってシンプル。ドッチボール鬼ごっこを「チーム戦でやるか?個人戦でやるか?」という話し合い。企画を立ち上げるメンバーで原案をつくっている途中で意見が割れたところをクラス全体で話し合う流れにした。争点がはっきりしていたので子どもたちにとっても話しやすいし、参観する先生たちにもわかりやすい話し合いだった。
授業が始まる前。続々と他の学校の先生たちが入ってくると、子どもたちは謎のハイテンションに。きっととても緊張したのだろう。話し合いが始まるといきなりカチコチモード笑。ただ、徐々にその固さもほぐれていき、25名中20名が発言できた。2回目の学級会としては上出来だ。雰囲気もよく、聞き合う土壌ができているなぁと感じさせてもらえた。これは今年度だけでなく、今までの積み重ねが大きい。子どもたちと、今までの先生に感謝したい。
話し合いの様子としては、途中で論点を整理したところで、どちらのやり方でやるか?からどちらの価値を大切にしたいか?という話への転換ができている子とできない子が別れてしまったように感じた。やり方について考え続けている子は、論点整理の後も、
「ドッチボール強い子がいるからチームで別れた方がみんな楽しめると思う。」という意見を言っていた。逆に価値について考えれている子は
「この前、図工の時間に並んで帰らなきゃいけなかったのに、周りの人に流されてバラバラで帰ってしまって揉めたじゃん?だから、もっと一人ひとりが自分の意思で動いた方がいいと思うから個人戦の方がいいんじゃない?」
という意見を言っていた。
ここの考え方が噛み合っていくことで話し合いがもっと深まっていくのではないかと思う。
授業が終わった後の協議会で1番自分の中で考えたことは、「どうしてクラスがもっと成長できるために必要なのはどっちか?」という言葉を使わなかったのか?ということだ。
学級会をやっていて最近感じる違和感にこれはつながる。子どもたちは「いいクラス」をつくらなきゃいけないのか?という違和感。
僕は学級は個人のための集団であって、集団のための個人ではないと考えている。一人ひとりがより成長するために良い環境をつくっていくことが必要。そのためには、一人ひとりの違いが出やすくなる環境を整え、その違いによる相乗効果が生まれやすくしたい。
けれども、学級会をやるとどうしても良い集団をつくるために個人がいるように感じてしまうことがあるし、子どもたちもそう感じてしまうのではないか?と思う。ここの微妙な違和感を改めて感じる機会になった。
ただ、学級会でサイクルを回すことが子どもたちにとって価値があることだとも思っている。学級会に対する解像度をもう少し上げたい。この違和感はなんなのか知りたいと思う。
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