間違えてゆきこを刺してしまった。以下、赤くなってしまったもの、毛足の長いふわふわのカーペット、小さな白いテーブル、掛け布団の角、ゆきこの制服。どうしよう、おかんに怒られてしまう。
 ゆきこはもう返事をせんくなったのでとりあえず拭ってきれいになるところはそうした。床とか、テーブルとか、ただ布はだめやった。布です問題は。どんどん染みていく。
 一旦おれの部屋を出る。となりのお父さんの部屋にペットシーツがあるのを思いだしたわけで、それを取りにいってまた部屋に戻る。既にゆきこは霊体となっていた。
「うわ、おばけになってしもた……」
ゆきこは泣きながらおれの肩のうしろに浮かんだ。そうするしかないのである。かわいそうに、はじめて男の子の家に来たおまえは、はじめてのおれに誤って刺され、死んでしまいました。かわいそう。
 おばけになったゆきこはもう話すこともできず、ただ悲しみの感情だけの、ぼくにとってはそのかわいい姿だけの存在であるから、かろうじて泣いているおばけという見た目でおれのうしろに浮かんではいる。おれがうしろを振り返ると絶対に直接目が合わないように視界のうしろに強制的に移動する、ぼくの目とゆきこの目はぜったいにおなじ方向をむくことになる。同じ景色これからも見ような。
 ではなぜゆきこの泣いているのがわかるのかというと、窓に映っているからです。夜の窓にゆきこのおばけが映っている。間抜けに、左手に包丁、右手にペットシーツを握ったままのぼくも映っている。最悪だ。馬鹿だ。最低だ。キモい。
 もうゆきこの、あ、死んでいるほうのゆきこです、物質的なゆきこのほうです、ゆきこの体からは蔦が伸びはじめている。赤くなってしまったじゅうたんも、掛け布団のはじっこも、とげとげのつたがめきめきと伸びて絡まりだして、やがてぼくの爪先も覆うような繁りかたを見せたので悲しかった。
「なんでこんなことに、なんでこんなことに……」
とはいうものの、とにかく広がる赤をペットシーツに吸わせる。床についた手の甲を縛りつけようとするかのように蔦が伸びてくる、とげが食い込んで痛い、しかしこれくらいの仕返しは耐えねばならぬ、なんたっておれはゆきこを殺したのである。
 かわいかったゆきこ、サッカーの応援にくるのでおれより日焼けしてしまったゆきこ、それも似合っていた。文化祭では遅くまで教室に残ったね、購買でおなじの好きだったよね、体育倉庫で三人でしたよね、あいつゆきこのこと本当は好きだったんだって、蒸しブタトイレに閉じこめたの楽しかったね、茹で汁浴びせるというアイデアはさすがゆきこ、ワードセンスいいなあ、指定校受かってよかったね、お兄ちゃんが引きこもりになっちゃったのは残念だったけど……大学行ったらお兄ちゃんと三人で草やろうって話してたのにね、そしたらお兄ちゃんも元気になって社会復帰できたかも……殺してごめん……。
 ええねん、と聞こえたようなきがした、耳元で蔦が擦れあう音だった。四つ這いのままのぼくのからだには毛細血管状に伝う薔薇の茎が四方から張りめぐらされて、外側に引き裂くような力を加えながらも内側に内側にと蠕動する触手のごとくゆきこの体のなかにぼくを結ぼうとする。
「ふたりとも、ご飯できましたよ」
がちゃ、と音がしておかんが顔をのぞかせる。
「あららっと💦」おかんのいつもの、決まりの悪いことはすべて剽軽な掛け声で逃げる癖を、おれは棘でざりざりに切り刻まれた背中で聞くわけである。「もうやだ〜わたしったら、失礼失礼。そうよね」
目元を手でひらひらと隠しながら部屋をあとにしようとするおかん。
「待って、よくみてよ、おれ動かれへんねん」
「あんたなんで関西弁なの? ここ茨城よ」
「どうでもいいから助けてよ! いてて……」
背骨が折れそうな強さで蔦が巻きついてくる。
「そんなこといっても、殺したもんはしかたないでしょう」
まあ、たしかにな。
 おかんはしずかに、火を放った。
 ぼくとゆきこのからだは、薔薇の茎たちは、燃えた。
 おれの部屋のすべては順番に赤に還った。すべてが光になった。おかんの顔は照らされて鬼のようだった。
 おれもおばけになって、霊体のゆきこと正面から向き合うことが叶ったのだが、それから56億7千万年が過ぎたある日、おばけのなかの長というか仏というかなにかそういう姿の見えない高次の存在から通達があった。
「もしかしたらこの世は仮想空間かもしれない」
え〜いまさら?! とゆきこだかなんだかわからない魂のゆらぎと、ぼくだかなんだか知らないけどたぶんぼくであろう魂のゆらぎは、かなり笑った。

 *

 いやな夢から覚めた気がする早朝、なにも覚えていない。窓の外の太陽電灯が白くカーテンを抜けてきて、5時ごろだろうということはわかる。鳥人形の鳴き声もする。あれは本物を知っている身からすると似ていないので、やめてほしいものである。
 居室のいつもの席に座って、そういえば今朝あの人がいないのは悪いことをするためだったっけと思いだす、そして特段緊張感もない。木を真似た材質で作られた椅子は尾てい骨に当たり、痛い。
 ただこの机のまんなかに置かれた、ケイ素製の透明な花瓶を見る。一輪差しによい、小さな、やや背の高い花瓶。こんなものをどこから持ってきたのかあの人は。
 なにも感じない。
 嬉しくも、悲しくも、悔しくもない。そしてなにもかも曖昧で、あの人がなんだったか、ぼくの大事な人だということはわかっているが、一体どこの人で、どこで出会って、こんなことになったのか、もう到底思い出せそうもないし、思い出す気力もないし、思い出していいこともない。
 最近こんなことばかりで、今が夢なのか、現実なのかもよくわからない有様。今朝だって、あの人がいなくてもなにも思わないし、そういえばいないな、と思ってからやっと、そうだ花を
「あったぞ!」
突然、玄関のハッチが開き、にゅっと入ってきた老人の頭がそう叫んだ、叫んだというか囁き声ではあったのだけど、もうわくわくした気持ちがおさえられていないのである。
 この人は、体のうしろに手に持っているものを隠しながら、部屋に入ってくる。こんなに老人だったろうかとびっくりする、まあぼくもそんなに老人なんだけど。
「花だよ。ほんものの」
隠していたものをぼくの鼻のさきに近づけて、みせてくれる。白い花だった。
 なんて美しいのだろうと思った。本当に思った。たしかに思った。はなびらの一枚一枚、水を閉じこめたようなしなやかさで、花芯は影が重なってまるでほんものの太陽に干したシーツのよう。
 思って、すぐにまた、なにも思わなくなった。
「花だね」
ぼくは花を受けとると花瓶にさした。ことんとケイ素の音がした、なにか目の奥に響くようななめらかな音である。夫は残念そうな眉をして、ゆっくりと向かいの席に腰をおろした。ぼくたちはしばらく、同じ距離で花を眺めていた。
「うれしくない?」
夫が言った。
「とてもうれしい。けど疲れた」
ぼくが言うのと同時に、握った手が下向きに差し出された……ので、ぼくは頂戴の手を上向きに差しだした。手のひらのうえにころんとひとつぶ、白い玉がころがった。
「なあに、これ」
自分の指先でつまんでいる白い粒をよく観察してから夫のほうに目をやると彼の指にも同じものがある。
「これは、ラムネ」
「ブドウ糖を練った菓子か」
「しっ、声が大きい」
夫は窓のそとをうかがうような動きをしながら、ぼくの手を握った。しわしわで硬い手だ、骨ばっていて、お互いに。もう一度花に目を落とす。しっとりとして、やわらかくて、白い。
「もうすぐ警察がくる」
「しかたのないことだね」
「だから、最後くらいこうしよう。同じ景色これからも見ような」
夫の唇のあいだからべろが出てきて、指先の丸薬を舐めとった。ぼくも同じようにした。なにも思わなかった。しゅわしゅわと甘い味。
 手を握りあったまま、どれだけの時間が過ぎたか、どれだけの時間がこれから過ぎるのか、わからなかった。想像もつかないほど長い時間のような気もしたし、もちろんほんの一瞬のような気もした。だれにとっても同じように訪れるものを、たまたまわたしたちはこのような形で迎えただけなのだと、なんとなく思った、けどやはり、なにも感じなかった。もうなにも感じなかった。なにも。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻