散歩

6月9日 25:00

長いこと歩いた。

眠くてめをつむる。布団に入る。しかしそこには山、田んぼ、自転車、雨の香り、声、声、風がする。
遅れて感情、感覚、反応が記憶が伴ってくる。

こういう日は不思議だ。風景が私の閉じた瞼にだけ取り残されている。
私の歩幅は、街や草木や生き物を通過するのにもかかわらず。機織のように、真っ暗のはずの閉じられた瞼にだけ織り込まれた風景がある。
受け流していた風景が、それだけ私の中に根を張っていたのかと驚く。ただ通過したはずの風景が、これだけ感受性に息を吹きかけているものなのか。



6/10  起床

犬の嘔吐の音で目が覚める。犬が何か普段と違うことをしたらすぐ目が覚める。それがどんな時間でも。もう少し布団の中にいたかったが、2分フリーズして、しかし身体を起こす。
ところが身を起こそうとすると全身が痛い。私はたくさん散歩をした人間だった。
数回だけした腹筋によって腹の筋肉が痛いことが情けない。起き上がる。起きてしまうと普通だった。むしろ普段の労働の疲弊の方が身体に負荷を与えている感じがする。

昨日の、寝落ち直前まで描いた上の文章におどろく。そうか。記録は大事だと思った。文章は誠実であれば伝わるし、表象に委ねていればそれはとても退屈だ。


道の先には誰かがいる。
1時間歩いても人間がいないこともあった。しかしその間はたくさんのサギを見つけたし、もっと無数の虫がそこらに居続けた。それはとても希望的なことだとおもう。

私は数年の間に、虫のことを苦手に思うようになってしまった。しかし、彼らを発見した時の脳はたいへんアンビバレンスの中にある。
片方の感情は、観測範囲を超えて私のパーソナル空間に静かに入りうる「侵害者」としての可能性、そして予測不能な動きによる単純な驚きが合わさったことで、パニック状態を誘発し、さらにはそれが絶対的な恐怖心に円転するもの。
一方で、最初に目にした時(きっとコンマ何秒の話)は、その慎ましやかな存在への憧れと愛情が募ることも事実である。
私に殺意も敵意もない虫が、ただ森のかろうじてある道を横断している。彼らにとってはそれは「道」ではない。ただの通るべき場所である。生きている、その先には何があるのかわからないが、彼らはその必然性を確信するまでもなく理解している。生きている。
尊敬の念が湧き起こる。それが転じてかわいいなとも思う。そして、この感覚はどんな(私が忌避して叫んだり即殺そうとする)虫にでも感じることだ。

この矛盾の中にいると心が使い果たされる。
虫のことをかわいいとおもっても、その1秒後には叫んでいるし、どうしようもない心拍数を保持している。視界から消そうとする、場合によっては殺そうとする。私という存在と傲慢さを思う。森は私をリフレクトする。どれだけ拘泥した存在かということを。恥ずかしい。悲しい。しかし、森の営みには心が震わされる、それは美しく、それは淡々としていて、至極冷静でいる。私は真っ直ぐに心をその歩みに委ねてもいる。森にやすやすと入れない自分含めて、全てリフレクトしている。


夜、開けた場所に行くといつも泣きそうになる。それは、地(水)平線の先に光の明滅があり、光の移動があり、それは全て誰かの営みであるからだ。私の元へ具体的な「光」として届けられたその全てには、例えば家族がいて、愛する人がいて、もしかしたら誰かを喪失した人がいて、同時に憎しみも悲しみも、もしかしたら酷いことも起きていて、でももう眠っているかもしれない人には明日があるし、明日がない人だっているかもしれない、けれど今光の中には存在がありつづける、そう思うと涙が出てくる。
同時にライトという意味での光の明滅を眺めて、しかし私の網膜というものは電磁波の振動としての「光」をあつめてそこで像をみているんだ、と気づく。私のみる行為とは、光の移動を眺めて、そこから想像して感じることまでが含められているのだと気付かされる。光にはいつも教えてもらうことばかりだ。
散歩とは、あらゆる意味での光を見つける行為であるのだから。


雨。突然たくさん降ってきた。衣服が濡れる不快感、それよりも散歩をやめなきゃいけない可能性の悲しさが襲う。時間を見ながら小雨ならば傘をさして歩き、次第に止んだため歩き続ける。雨の中歩くことは嫌いじゃない。衣服が濡れさえしなければ。
先ほどの虫と同じで、私のパーソナルスペースを侵害してくるものを極めて不愉快に思う。雨に濡れた衣服は、私の心理的安全性を侵害し続けるからたまったものではない。それでも、それを受け入れつつも歩みを進めることは、多くの場合愛情が絡んでいる。人に向けられた場合もあるし、散歩に向けられた場合もある。だから歩みをやめず、訳のわからない道をひたすらに歩いていた。自分が感じる不愉快など、それ以外に大切なものやことがあれば取り立てて考える必要もない。それよりも大事なものがあるならば。

散歩は、私が歩いたぶん私に向き合ってくれるから、それを尻切れ蜻蛉で終わらせることはできるだけしたくないのだ。散歩は嘘をつかないし、裏切りもしないし、虚飾性もなければただそこに居てくれるものだ。これは犬に対して思うことでもある。対して人間はどうか…とペシミズムに入りそうになるのでやめる。
思考の癖として私は人ではない物事や動物を擬人化して考えがちだが、それは無論散歩にも向けられているわけだ。
でも散歩はずっとそばにいてくれる行為であると思う、すごく誠実な行為だと思う。だったら私も誠実に散歩をしたい。受けた恩恵は返したいし、返せなかったとしても実直な態度でその瞳を(どの瞳ー!って思うけど、私の中には見えている)見つめ返したいと思うのだ。散歩に対してそう思う。
結構マジでそう思っている。これは恋らしい。
私は散歩に恋をしているらしい。


雨の音は拍手に似ている。
何もないところは地面に線状の水が落ちていくが、そこに何かあると縁を模るようにオブジェクトが可視化される。
祝福が縁取りをすることを雨という。
音も香りもなかなかいい。道全体が合奏をした後のような感動を覚える。
ただ極度に寒かったり蒸し暑かったりすると苦手になる。こうして言葉にしてみると私は意外にも一貫していて、心理的安全性を害してくる現象をとにかく忌憚している。対人になるとそれがうまくいかないが、現象に対しては強気に出ているのかもしれない。現象は優しく単純だからね。それらはコミュニケーションはできてもコミュニカビリティは持たない。気が楽だ。
道や街やそれを構成する風景や生き物たちに感謝が募る。



歩き続けるとそこには街があり、誰かの感覚や感受性が明滅して私の前を通り過ぎる。片手にストロング缶を持った会社員が、その辺に座り込んでロータリーを眺めている街から電車で帰る。この垢抜けない街が、田畑とか森とかを歩き続けた結果には大都会に見える。
家に帰るため電車に乗る。黙っている。今日は無理して人と話していない。上半期は環境に適応するまでの期間でいつも無理をしている。大抵バクバクする心拍数の中で会話をする。それが露見して、誰かと話している時キツくさせていたら申し訳ないなとか、その類のいろんな反省をしながら電車に乗る。車窓の奥の景色を眺めたいのに、真っ暗すぎて自分の顔がリフレクトする。不愉快。12時間散歩した人間の顔は決して自分が設けた美のラインを上回り得ない。
自分の輪郭の向こうに見える夜景を見つめる。何もない。暗い。しかしそこにはきっと営みがある。ぼんやりと考える。家に帰ってどうするか、今日のできごと、これから夏に向けて散歩をどうするかということ、過去のこと、人のこと、話していること、内容について感情を動かしてみたり止めてみたり、電車に揺られる曖昧な心が静かに動くことを知覚しながら、反射の反射によって見えるおじさんが目を覚ましたことを認めたところで、何もない足元を見つめる。


若干のアイデアが湧く。やってみる。散歩をすると元気がもらえる。
労働をして生きていると元気が削がれてゆくので、大変いい時間だった。




散歩は大地を愛撫する行為である。
足の裏でツボを押すみたいに、歩みを進めるたびに大地を慈しむ。それができてはじめて風の滑らかさを知り、鳥や虫やカエルが出す鳴き声や羽音が旋律であることを理解する。自分らの砂利や土を擦る足音や、コンスタントな歩幅の音や衣擦れが拍子であると理解する。
そうした時、私も風景の一つになっている。

散歩は私を風景にする。そうして散歩は、世界の複雑さを優しく突きつける。私は世界を知ろうとする。
知ることは愛情であり、愛情は営みだ。
だから散歩が好きなんだ。

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