ティル・ゼア・ウォズ・元気

2024.1.20 19:07
自分をうまく運営していたいという欲望がある。
人間が睡眠不足のせいで人の話していることの意味を理解できないことや、恋愛の細やかな悩みで体調はおろか命を揺さぶることや、明け方にラーメンを食べて後悔することを、あまねく並列の事象に思う。つまりそれは「私」という国家のインフラストラクチャーがダメになっていることを意味している。自国に諦めを持ちながら生きる市民の、特別な情動が沸騰するようなことではなく、常に通奏低音として国を恥じて悲しく思うような、そうしたイメージを思う。そのすべてに、さっぱりとした恥ずかしさを覚える。

だから、私は自分を運営していたいと思っている。それも、うまく 運営していたいと思っている。

これはまた、思っているだけだ。運営をすることへの本来的な渇望はきっとなくて、そんな社会をぶち壊すほどの、何か、忘れたくても忘れられないものが、道路も水道管も空の青さをも裂いてやってくることを、知っているし求めている。私は、そのために自分を運営していると言っても他ならないし、それ自体が、矛盾するのだけれど、私を絆すことのすべてである。それは、さっぱりとした恥ずかしさそのものでもある。
見せたくない姿を晒すほどの、幸せなカタストロフィを求めている。そうしたことに出会える時、私はまた、自分という国家を見つめ直す。

2024.4.21 メモ
春に気分が落ち込むのは、みんなの不安が風に乗せられて飛散しているからなのかもしれない。まるで花粉と一緒で、みんなの持つ心許なさが、私の共感性という免疫にとどき誤反応してるのかもね。

この疼痛を悲しみと呼ぶとして、ファンデーションの残る自分の顔を擦っていた。
言葉が出てきては消えて、文字を書いていては全て消して、だったら書かなくていいのに、何かを残したがっている。唯一の救いは、私の左肘と腰のあたりに犬の温もりがあり続けること。それがなかったら私は形を失うんじゃないか。薄い青、スライムみたいな自分を想像する。現役生の頃、最も課題で失敗した時の造形物みたいな質感で。というか、その記憶がフラッシュバックする。そこに今は感情は伴わないけど、当時の自分は何もできなかったことが苦しかった。それゆえに、私のシナプスは青いスライムを無能さ加減のシンボルとして記憶しているんだと思う。
混乱しているのだということはわかっている。その感覚は映像に置き換わり、渦潮のイメージが浮かぶ。今度はまた身体に引き戻され、口と鼻に、潮水を飲み込んだ後の感覚が1センチくらい残る。塩がもつ剣呑さが、わたしの体の中にのこる。
きっと海の連想から、まもなく、高校生の頃に時々乗っていた、朝のモノレールを思い出した。あの他人行儀な箱の中で、遅刻するかもしれなかった自分の不愉快な内臓と頭の判然としなさが、今のわたしの感覚に直結する。かすかに聞こえる雨の音から、イメージと触覚が、多少の眠気の中で誤りながら接続する。日差し、制服の硬さ、息のしづらさ、英単語帳の不自由さが、渦、渦の中に落ちている。幻想との往来が激しい夜はいいものではない。眠れないわけではなく、眠らないわけでもなく、ただ無性に、愚鈍さを了解したからだを背負っている。
この疼痛を悲しみと呼ぶとして、なぜ私は今悲しいのだ?

2024 4.22 1:22 など
うまく やろうとすると窮屈になる。成績みたいな対外的評価によって自分の首が苦しくなる。関係ないじゃんね。
マジメだね(笑)
うまくやる必要ってないと頭ではわかってる。感動したい。誰か/何かに心を動かさせられることほど、欲しているものはない。気づくことは傷つくことだと枡野浩一は短歌の中で言ったが、その通りである。発見の中に生まれる傷のかさなりと、自己治癒によって生まれる瘡蓋が、私のすがたをかたちづくる。

2024.4.23 19:00くらい
教職、手続きが多い。あらゆる書類、わたしの生活圏にいる人間はまず持って不得意そうな申請や根回しの数々で、ほんとにこの学校で先生になれる人はいるのかと思う。そういう事務仕事を1人で行う時のキツさ。しかし同時に、大人だろと思い、特に喚く事なくやってのけようと思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』を読んでいる。読み始め。あえて俗っぽく言えば、カリスマ文筆家の超面白アメブロ みたいな感じ。ルソーはもしアメブロがあったら、アメブロで済ましてたんじゃないかと思う。アメブロじゃなくてよかったと思いながら読んでいる。紙にすることの方が、データよりも恒久性があるように、この場合は感じる。翻訳の語彙、あるいはルソーの言葉遣い、面白い。翻訳の方は堀口大學に師事していたようで、なんだか納得するような。これから読み進める。
同時に、山内志朗の『天使の記号学』という本も読んでいる。大変面白い。罪悪感について今は論考が進められている。ルソーが、ちょっといろんなことが嫌になって消えちゃいたい!!!みたいなことを芳醇な言葉で残しているが、山内志朗が指摘する、人が持つ「天使への憧れ」のむごさとリンクする。飲み合わせ(読み合わせ)のよい本を今読んでいる。かなり嬉しい。特に山内志朗の言葉は一見柔和に見えるが大変に鋭い。自分の「発見」分野が手首だとして、そこに山内志朗の「鋭角で厳格な仮説」というナイフがわたしの皮膚を裂く感覚に陥る。完璧に血が見えるのだが、そこに残るものは自傷性ではなく、自身の見えるはずのなかった重要で完全な流動性の発見である。いつも、ポジティブな事象に対して、ネガティヴな心象風景を汲み取るのはわたしの思考の癖だろう。

わたしは並行読書をしまくるので、かなり空いているがフィツジェラルドも読んでいる。デヴィッド・フィンチャーが監督をした、超名作映画の原作である『ベンジャミン・バトン』が究極的に面白く、『モコモコの朝』くらいの流れまでは完璧に興味深い短編集だったが、次第に持久走の如きになっている。つまり、あと2篇だけなのに息苦しく1ページも読めずにいる。わたしは数年うまく本が読めない時期が続き、苦しい気持ちでいたが、それとはまたケースが違う、単純に肌に合わない短編という所感である。意識的に集中することは割に得意なはずだが、こんなにも無理なものかと驚く。むしろそうした状況が面白く感じている。
その時まったく受け付けなかったものほど、しばらく経って自分の中に大切なしこりとして残るものだ。できないこととか、うまくいかないことの方を大事にしているから、この現象が面白いと今は感じる。
さらに言えば、大江健三郎の『治療塔惑星』という本も読み途中で放置している。というより、『治療塔』の続編と知らずに読み始めたからわかりづらくてしょうがなく、それを買うまで読めないなと思っているだけだが。積読だらけだが、なかなか本を読めるのは気分がいい。批評に全振りしたQJこと木野評論という素晴らしい本も図書館を散歩していたら発見し、気になるバックナンバーを買った。気が向いたら読む。なかなか面白い。
フ。

わたしは常に混乱の中にいる。あるいは混乱の世界を生き抜くための、サングラスを置いてけぼりにしている。混乱を混乱のまま見つめることほど愚かなことはない。その先にある幻影を、いかに現実にするかが世界の渡りかただと今は思うから。無駄なことは何一つないけれど、無駄だと感じてしまう精神的揺らぎはいつでもある。わたしはわたしの時間を持っている、それはゆっくりとした、静謐の中。静謐を疑い始めた時は、よっぽど何かが欠けている。それを取り戻すことが必要なんだろう、と他人事のように感じてみる。ルソーも似たことを言っていた、だから散歩狂は同じような(精神的な)語彙になるのかもしれない。

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