8. 倉庫②(平成31年3月20日)

月島潤は、暗闇の中で自分の手首を握ってみた。ずいぶん痩せた。ここに立てこもって約三ヶ月。幸い、まだ食料は何とかなる。今のペースなら二ヶ月くらいは保つだろう。でも、二ヶ月保ったから何だって言うんだ。立てこもりを選択したのは、素人が訳も分からず東京脱出を図ることよりも、生き残ってプロによる救出を待つことの可能性に賭けたからだ。この屋上での見張りも、様々な不測の事態を避けるためでもあるが、どちらかと言えば救助の可能性を逃さないためというのが大きい。でも、三ヶ月来なかったものが、ここから二ヶ月で来ると、どうして言えるのか。もうとっくに日本中がこうなってるのかもしれない。いや、東京だけが見捨てられた可能性だってある。

不安になると、空を見上げるのが潤の習慣になっていた。停電と同時に東京の夜空を満たした星々は、当初はまるで、潤の決断を祝福するかのように輝いていた。しかし、今はまるで空ごとのしかかってくるかのようだ。真っ黒な天井に圧縮された無限の奥行きと時間。途方もない。この世界は到底自分の手には負えない。他人よりも賢いような気になって、張り切って、結局は非日常的な状況にはしゃいでいただけだったんじゃないか。所詮、三ヶ月や半年で都合よく何かが起こるはずなんかなかったんだ。こんなちっぽけな乾物屋なんて、誰が見つけるんだ。潤は空から顔を背けた。

下の道、黒い塊が十体ほど徘徊している。結局、ウイルスなのか何なのか、何が感染しているのかは正確にはわからずじまいだったし、それが厳密にはいつからはじまったものなのかもわからない。渋谷の動画の時には、実はもうずいぶん取り返しのつかないレベルだったのかもしれないが、こいつらは半年か一年か、いずれにしてもその程度の期間で、少なくとも東京の日常を見事に破壊してみせた。短期間でも劇的なことが起こることはあるのだ。一体、何に励まされているのか。潤は再び空を仰いでため息をついた。まだ白い。

屋上から倉庫に降りると、あさひが一人、布団の上で黙々と絵を描いていた。ひと月ほど前に小畑の双子のじいさんばあさんに取り憑かれて以降、一心不乱に絵を描き続ける姿には潤としても圧倒されるものがあった。現在は「妹の服を着て先生を騙そうとする小学三年生の頃の小畑のじいさん」に取り組んでるらしい。もはや潤には何が何だかわからないが、暗い倉庫の片隅で、懐中電灯の灯りを頼りに絵を描き続ける妹の横顔は美しく、神々しくすらある。ふとこちらを向いたその瞳に、潤は射すくめられた。

「スルメ食べる?」

差し出されたスルメを口にくわえて、潤はあさひの隣に腰掛けた。二人並んでスルメをしゃぶる。

「順調?」
「うん」

あさひの作業の進捗を尋ねてみたところで、それがどうというわけではない。あさひの向こう側にちらりと見えるスケッチブックの中、ボールペンで精巧に描かれた小畑のじいさんの幼少期らしきもの。それ自体は、別に潤にとってはどうでもいい。ただ、店名入りのボールペンをノベルティとしてたくさん作っておいてよかったと思った。まだしばらくは、あさひは絵を描いていられるだろう。

しかし、「しばらく」とは何時までなのか。その間にも、あさひは自分と同じく痩せていくだろう。懐中電灯の灯りで照らされたあさひの横顔は、陰影が強調されて尚更やつれているように見えた。自分よりも背の大きい妹の体をゆっくりと、強く抱きしめると、防寒具の下の体の細さが微かに伝わってきた。生々しい体臭も相まって、潤は母を思い出し、抱きしめる両腕にさらに力が入った。

「潤ちゃん、いたい」
「ごめん」

少し力を緩め、潤はもう一度、妹のにおいを嗅いだ。くさくて落ち着く。

「外、何にもなかった?」
「いつも通り」
「なんかこう、わーって来てくれたらいいのにね、いっそ」
「死んじゃうじゃん」
「うん。でもほら、わーって来てくれれば、こっちもやるしかないっていうかさ」
「うん…」
「元気ないのにたくさんいるから困っちゃうよね」
「……ごめんね」
「……?」

                  ※

夜が深まり、潤の今日の見張りもこれが最後となっていた。特に変化はない。下の暗闇では黒い影が相変わらず当てもなく徘徊している。自分も変わらず、それを漠然と眺めている。お互いに進歩のないことだな、と、潤は嘆息した。なんだかもう、下の奴らも全部ひっくるめて情けない。確かにあさひの言うように、いっそまとめてかかってきたらどうだ、という気持ちにもなる。こんな壁くらいよじ登って来い、しょうもない。潤は段々腹が立ってきた。こんな奴ら相手にひたすら籠城戦を決め込むしかない自分自身にも。

顔を上げても、瞳孔の広がった潤の目には相変わらず真っ暗な東京の影が映るだけである。夜は見張りの度に懐中電灯を点滅させて、どこへともなくSOSを送ってはみているものの、反応があった試しはない。この辺りはもうとっくに全滅なのかもしれない。見てるにしてもリアクションがないなら同じことだ。そう思いながらも、潤は惰性で懐中電灯を点滅させた。

さあ、とっとと倉庫に戻ろう。そう思った瞬間、静止した町にぽおっと一つ、小さな灯りが点った。点滅はしていない。動いている。建物や人影に遮られ、時々ふっと消えてはまた浮かびながら、遠くからこちらへ、ゆらゆらと揺れながら近づいてきている。その人霊を、潤はしばらくぼおっと見ていた。ついに自分は幻覚を見ているのかもしれないと思いながら、屋上に置いてあった双眼鏡を久しぶりに手に取った。光の横に、人間のシルエットが見えた。走ってる?駅の方から走ってきた?正気とは思えない。迂闊にコンタクトを取っていい相手じゃない。大勢引き連れてきてしまってる可能性も高い。潤は身を伏せて見守った。自分の心臓の音が聞こえる。

暗闇に一点だけ、まるでサーチライトを浴びているかのように光るその人物の姿が、段々と大きくなり、解像度を増していく。全身肌色の服に見える。たぶん女性だ。いや、完全に女性だ。おっぱいがある。おっぱいが激しく揺れてる。乳首もある。丸出しだ。「全身肌色」なんじゃない、裸なんだ。下半身に毛がある。全裸だ。全裸で走ってる。

ぺたぺたっと足音が聞こえはじめ、ついに倉庫の前の道にやってきた。下をのぞくと、やはり完全に全裸の女性がランタン型のライトを片手に、パンパンに膨らんだリュックを背負って走り抜けていく。淡々と、スルスルと、徘徊している奴らの間を縫って。周りはまるで、彼女のことが見えてもいないかのように無反応だ。追いかける素振りもない。

走っているのは逃げてるからではないのだ。ただ、寒いのだ。三月下旬の夜中の二時に外で全裸だからだ。空いている方の手で寒そうに二の腕をさすりながら、女性はそのまま走り去っていった。こちらに気づいたのでもない、助けを求めているのでもない、逃げているのでもない、ただただ、全裸で疾走していった。

「あ~、さむい、さむい…」

音のない真夜中の町に小さく響いた、久しぶりの赤の他人の声だった。なんだか妙に嬉しそうな声だった。潤は遠ざかっていく光を呆然と見届けた後、ゆっくりと星空を見上げた。

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