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書きたくなくなっちゃった なにって育児エッセイを

最後に育児エッセイを書いたのはいつだろう。霞がかかったようで思い出せない。ほんの数ヶ月前のはずだけど、遠い昔のことのよう。
子どもたちのこと、家庭のこと。書こうと思えば書けるんだけど書きたいと思えなくて。


noteの街にもポジショントークはある。ポジショントーク、自分をよく見せるために狙いを持って綴る文章。ブランディングだなんて大げさなものではないにしても「こう見られたい」をにおわせながら書く人は多い。
自分の褒められたいポイントを、認められたい事柄を、noteに書いて公開する。みんなのスキを得て、ホッと胸をなでおろしたり鼻を高くしたりする。文章のテクニックがある、仕事ができる、先進的である、学問の素養がある、ユーモアがある、イイ女/イイ男である、家事育児に長けている、自身をこき下ろしながらもそんな自分が好き。もちろん「見せたい自分」がなさそうな人もいる。

あるとき私は昨年6〜7月に書いた自身の育児エッセイを読み返して「奔放な子どもを許容するお母さん」「見守りが上手なお母さんの元で伸び伸びと育つ子ども」が透けて見えて、あぁ鼻につくなぁ、クセェなぁと、ほとほと嫌になった。そんな風に見られたがっていたのか私は、とつまらない気分になった。

たまたま精神状態が悪かったのだろう。だっていつも誰かの育児エッセイを読んで「あぁ鼻につく」だなんて思わない。参考になるなぁ、いつも頑張っているなぁ、お子さん可愛いね、今日もお疲れさま!そんな感想しか抱かないのだから、自分の育児エッセイをそう読んでやってもいいはずだ。
実際のところ、私の書いた育児エッセイはいい。

でも、一回そう感じてしまったらもうダメだ。育児エッセイを書きたくなくなった。


先に述べたポジショントーク、まるで悪いものであるかのように書いたが、そんなことはない。他人に読ませる文章を書くことは見せたい自分を表現する作業でもある。
みんなみんな「私はこう見られたい」を素直に出して書けばいい。
私も意識的にせよ無意識にせよ、狙いを持って文を書いているし、これからもそうあるだろう。

私の場合は自分の書いていた文章と自分の方向性との間にズレを発見してしまった。それで育児エッセイを書けなくなった。「いいお母さんとして見られたい」だなんて、私はこれっぽっちも思っていない。
私は誰にスキされなくとも「いいお母さん」だし、自分の文章で「いい子ども」を定義したくない。書く必要のないもの、書きたくないものは書かなくてもいいのだ。それを書くぐらいならもっと書きたいものがある。


じゃあ何を書きたくてnoteを書いているのか、昨今のマリナ油森を読み込んでくださっている方なら感じ取ってくれているだろう。

私は「ちゃんとしない」を書きたい。

それでは一発、ちゃんとしない育児エッセイでも書きましょう。
エッセイというか小噺に近い短いやつだ。


昨年6月末に書いた育児エッセイ。

辛抱強い母と機転の効く長男(そしてそれを育てた母)により、次男の噛みグセが治ったことを綴るこのnote。「すごいでしょ」と見せびらかす意図が透けている、鼻につく育児エッセイである。繰り返すがこれはひねくれた見方だ。これを読んでいる誰かは拡大解釈して筆を折らないでください。
素直に読めば、なるほどこういう手があったかと誰かのつらい日々に光明が差すかもしれない、育児の参考になるお役立ちエッセイだ。
ちゃんとしている。

これを書いてから半年以上経った。


ご報告します。

昨秋より次男の噛みグセが復活しました。
今回は長男のやり方がまったく通用しません。
次男は甘える手段として噛み付きを愛しており、やめる気配がありません。
顎の力と俊敏さは半年前よりもずっと上がっています。
私の肌は内出血だらけだ。
痛いです。助けてください。


ちゃんとしたエッセイの裏には、ちゃんとしていない日々がある。
得意げに文を公開する裏では、うわぁどないしたらええんやとなっている。
みんなそう。たぶんね。

♡を押すと小動物が出ます。