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笑ってよ、プリンセス

「マリナちゃんはピーチ姫だから、そこから動いちゃだめ」
小学校に入る前のこと。近所の男の子たち4人と公園で「マリオごっこ」をした。女の子は私1人だけ。男の子たちは花壇のへりやベンチをぴょんぴょんと飛び移り、ピーチ姫の待つゴールに到達してはスタート地点に戻って、心躍る冒険を何度も繰り返していた。ピーチ姫役としてゴールでじっとしていることを命じられた私は、自分も冒険がしたくなって男の子たちに声をかけた。
「ねぇ!わたしもマリオやりたい!」
「だめ!マリナちゃんは女の子だからピーチ姫!」
気が強い子どもだった私は食い下がる。
「じゃあピーチ姫でいいからジャンプしたい!」
「ピーチ姫はジャンプしませぇーん」
多勢に無勢とはこのことで、紅一点の私の主張が受け入れられることはなく、この日はずっと、男の子たちが飽きるまで黙って突っ立っているしかなかった。

数年後に発売された『スーパーマリオUSA』では、プレイヤーはマリオと同等に操作できるキャラクターとしてピーチ姫を選べる。ピーチ姫だって冒険するじゃん。フンッと鼻を鳴らして私はピーチ姫を使った。そのあとも任天堂はマリオシリーズを発売しつづけ、あまたのゲームソフトで、マリオたちと一緒にピーチ姫は優雅な暴れっぷりを披露している。

あれから約30年が過ぎ、不満げにゴールに仁王立ちしていた私も母親になった。アメリカのカリフォルニアで、多様な人種のお友達と楽しそうに遊ぶ息子を目を細めて見ている。
ブラウンヘアー・ブラウンアイのアメリカ人、褐色の肌のアメリカ人、金髪碧眼のアメリカ人、アフリカ系アメリカ人、インド人、中国人、韓国人。国籍もルーツも様々な子が、一緒にヒーローごっこをする。ここには「日本人のヒーローなんていませーん」などと言う子どもはいない。
旅先で、コーカソイド系の子どもたちだけの集団に我が子が突撃しにいったときはさすがに差別に遭わないか気を揉んだが、杞憂だった。そこでも、みんながヒーローだった。

近年のディズニー映画などのコンテンツが一役買っているのかもしれない。多くの大人がそうであるように、子どもも前例を基準に物事を考えがちだからだ。「肌の黄色いヒーローはいない」「肌の黒いプリンセスはいない」そんな嘲りを鼻で笑えるように、アメリカのコンテンツは包摂性を推し進めている。

前例を、作っていこう。
ゴールに固定され唇を噛むピーチ姫は、少なければ少ないほどいい。

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