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令和三年三月十二日

「死んだらダメ」という言葉が、私は苦手だ。


死んではいけない。死ぬのはだめだ。
自死を望む人に対して、投げかけられる言葉たち。ずっと苦手で、耳にするたび耳を塞ぎ、遠ざけてきた。


死んだらダメ、と人は言う。誰かの「死ぬ」という行為に対して、ダメと禁止する。禁止があるなら、その反対もあるわけで。「死んではダメ」の反対は、「死んでもいいよ」となる。

今にも飛び降りようとしている人に対して「ダメ」「いいよ」とジャッジを下す。その人は何者なのか。


誰かから放たれる「ダメ」「いいよ」に対する、強烈な違和感。
同じものを、私は出産後に経験した。


働いてもいいよ。好きにしていいよ。何でもいいよ、と。

幾度となく投げかけられた「いいよ」の数々。その度に私は、なんとも言えないむず痒さと心地悪さを感じていた。

なぜ私は、私の人生を誰かから「許可」されなければならないのだろう、と。

とりわけ夫に対しては、「なんで私が働くのにあんたの許可がいるんや」「なんでもいいよじゃないやろ。判断を丸投げせずに、ちゃんと一緒に考えなさいよ」と憤っていた。


あの時の「いいよ」と、自殺の「ダメ」


まったく異なる状況だが、この2つはとてもよく似ている。


欲しいのは許しじゃない。禁止でもない。欲しいのは、自分らしく健やかに生きていくための、知恵と人手と支援。
それなのに、遠巻きに眺めて、あやこれやとジャッジする、あなたは誰?


育児にボロボロになった人を救うのは、「〇〇していいよ」という外部からの一方的な許しではない。一緒に育児をしてくれる人や、一人で眠れる時間、生活に困らない収入だったり、安心してくつろげる家や社会。有形無形の支援を差し出して初めて、その人は「好きに」育児ができる。100万回のねぎらいの言葉より、一枚のお札が人を救うことは多い。

だからもし、自死を望む人の助けになるものがあるとしたら、それは「死んだらダメ」などという言葉ではないかもしれない。外側にいる人間がいくらその言葉を投げ掛けても、きっと届かない。大海原に投げ込まれた小石のさざなみのように、薄い波紋を広げて消えてしまう。
誰よりも長い時間、誰よりも深く思考を巡らせて、生と死について考え続けてきた。その果てに出した結末を、第三者が簡単に覆せるはずがない。

生と死に対する思考や不安を、他人が肩代わりすることはできない。外側にいる人間が差し出せるのは、医療機関の電話番号や、適切な入院・治療、休業補償や入院費の補償、退院後の就労支援や通院支援しかない。死んではダメと100回呟くことと、専門家による一度の治療。どちらが有益なのか。


それでも、救えなかったとしたら。

空々しい言葉ではなく、在らん限りの支援を行っても届かなかったとしたら。手を尽くしても手が届かない。その時はもう、「死んではダメ」「死なないでください」と訴えることしかできないのかもしれない。それだけが、最後の希望になるかもしれない。



もしかしたら、「死んだらダメ」よりも、手厚い支援よりも、もっと違うものが必要だったかもしれない人へ。


令和三年三月十二日

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