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ほどほどに楽しく生きる独身女性のロールモデルが身近にない社会でほどほどに楽しく生きるにはどうすればよいのか

 数年後には人妻になる予定だったのに予定が狂って独り身になりました、しょーこです。今の私の悩みはタイトルの通り、「どうすればこの社会で独身女性がほどほどに楽しく生きられるか」。日本社会が変わりつつある潮目を体感してはいるものの、まだまだ「ほどほどの」独身女性が胸を張って幸せだと言える社会には程遠いとも思う。これからの社会を頑張って生きなければならない私は、どのように生きていけばいいのだろう。

 そもそも、なぜ独身だと肩身が狭い思いをするのか。結婚している人類全てが幸せではないと知っているはずなのに、それでもなぜ「結婚」が成人男女の基本的なステータスだと考えられているのか。それは、我々人間が社会的な動物であることから逃れられないからではないだろうか。原始より人々は周囲の人間と協力しながら集団を形成し、他集団と争ったり調和したり支配したりされたりしながら生きてきた歴史がある。人は一人で生きていくことはできない。誰かの支えになり、また自らも支えてもらいながらでしか生命を維持することができない。ムラ社会だった以前と比べて大きな集団の意識が薄まりつつある現代において、個人にとって一番身近な集団は家族だ。家族の存在があってはじめて他者との強い繋がりを維持することができる。会社の同僚や地元の友達など仲のいい他者はいくらでもいるだろうが、生活を共にする対象ではない。誰かと生活を共にすることが、おそらく人間という生き物にとって最も効率的な心身の安全を確保する方法であり、その上に他の人間関係を構築する余裕が生まれるのではないだろうか。もちろん、これは私の一意見であるし、家族にそのような意義を見出さない人、家族がいない人など様々な立場があるということも理解している。あくまで個人としてではなく、ホモ・サピエンスとしての人間が求めているものだと思っていただきたい。でなければ、我々は家族をもたない動物として進化してもよかったはずだ。

 では、ホモ・サピエンスにとっての最も重要な精神安定剤である家族を持たない人はどうか。ここでは生来の家族ではなく、自分が新たに築く家族のことについて述べたい。生来の家族を自分の意思で選ぶことはできないが、新たに築く家族は自分と相手の意思が存在するからである。つまり、新たな家族は持つことも持たないことも自由である。家族を持たないと決めた人やほしくても持てない人が不幸せだと言いたいのではない。むしろ、家族を持たないことが不幸せの要因であってはならないと考えている。家族が欲しいと強く願う人にとってはそれは不幸せの原因になりうるだろうが、そもそもなぜ家族を欲するのか根本的な部分を考えてみてほしい。結婚がしたいから?子どもが欲しいから?それとも、一人が寂しいから?その感情はどこから来るのだろうか。きっと、ホモ・サピエンスとしての人類にみな備わっている感情なのではないだろうか。ならば仕方がない。だが、本当にそれ以外の要因はないのか。

 「結婚していない人は社会的な弱者」とされてしまうのがこの国の現状だ。白い目で見られたり、周りに「結婚しないの?」と圧力を掛けられる。だが、本当にそれでいいのだろうか。家族を持つことだけが正しいゴールなのだろうか。ダイバーシティという概念はどこへ行ったのだ。家族を持ちたい人には公的な補助をすればよろしい。家族を持ちたい人にも出会いの場を設けるだけでいくらか変わるだろう。では、そこまで拘っていない人々は?私は「この人と結婚したい」と思って2年間を過ごしてきた。だから一人になった今、別に結婚や家族に拘泥する理由がない。特別な相手だったからこそそのような感情を持っていたのであって、「普通の人間として認められる」ための結婚は必要ないのである。しかし「どうしよう」という焦りが消えない。それはもちろん「一人が寂しい」という気持ちが大きいのだが、どこかで「周囲にどう思われるだろう」と思っているからでもある。残念ながら社会は私を救ってはくれないのでそんな社会を気にする必要もないのだが、「なんであの人結婚できないんだろうね」という声は、きっと不必要に心を傷つけると思うのだ。社会に蔓延っている「結婚=きちんとした成人男女の証」という重たい鎖を、そろそろ断ち切ってもいい頃なんじゃないだろうか。

 日本社会において、独身女性で独身人生を謳歌しているであろう人はいまだにフィーチャーされにくい。実際に私もバリキャリか、趣味と結婚している人か、自由を愛する人くらいしかいないのではないかと思う。どんなタイプにせよ、私はそうやって生きている人々を強い人間だと思う。確固たる軸がある人は、軸があまりない人よりもブレにくい分生きやすいように思われる。もちろん、虚しくなる瞬間やその人個人の悩みはいくらでも尽きないだろうが、苦しみで涙を流す時間より目の前のタスクを遂行する時間の方が長いのではないだろうか。あくまで予想にすぎないが。では、「ほどほどに」仕事をして「ほどほどに」趣味を楽しんで「ほどほどに」友達と遊んでいる女性は寂しい人間なのか。そうではないはずだ。もちろん、虚しくなる瞬間はあるだろうが、それは誰だって同じことだ。家族といても虚しくなるときがあったっていいだろう。ともかく、「ほどほどの」女性を不幸せだと騒ぎ立てる世間がなければ、もっと気楽に生きていけるはずだ。そして「ほどほどの」女性のロールモデルが、今こそ必要なのではないだろうか。同じ境遇の人には「あ、そういう生き方でもやっぱいいのね、幸せなのね」と思わせるモデルが、社会全体には「これも新しいスタンダードなんだ、社会って変わったなあ」と思わせる広告塔のような人物が、必要なのではないだろうか。

 もちろんこれには大きな問題点がある。最近のSNSは非常に炎上しやすく、無駄な誹謗中傷がどこにでも現れることだ。それに、特定されたくもない。目標は穏やかにほどほどに生きていくことであるわけで、大きくかけ離れてしまう。ハリネズミのジレンマだ。一個人が大きなリスクを背負ってまでロールモデルになる必要があるのか、言うまでもなく否だ。じゃあ結局、私はどうやって生きていけばいいのだろう。

 今のところ答えは出ないしこの先私が生きているうちにロールモデルが現れるかもわからないけれど、「ほどほどに」楽しく生きている独身女に過干渉しない時代よ、来たれ!

 

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