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ラベルのない男(掌編小説)

「あのニキビ面がどうにかなればまぁまぁいい顔だけどな。」
 オレは言い返せないでいた。小学生の頃のように言い返したり反発がちゃんとできていれば「イジメ」と思わないで済むのだろうが、怒れてしまって、怒りを声に出せば「いい大人が情けない」という同調圧力によってオレの思いは見過ごされるだろうと考え、イヤホン越しに聞いたその声を聴こえないフリで沈黙をしていた。
 オレの生活は全く満たされてなどいない。それでいて反抗することもできないイジメを喰らいやすい体質だ。
 ガタゴト揺れる赤い電車に差し込む斜陽は、今から始まる夜の深さを物語っているようだった。車も持たない田舎での一人暮らし。決して楽な生活ではないし、恋人はいないし作る希望もないし、先のように知人の悲しい言葉が耳に入っても聞こえないふりをして過ごしている。このままでいいのか、オレ。そうは思っていてもオレはオレの好きな男のことを想って、イヤホンで聞いている音楽の音量を上げたのだった。
 車窓に街が流れていく。あと一駅分の呼吸を穏やかにするために大好きなアイドルの音楽を再生する。この趣味も馬鹿にされたんだっけ?不意に思い出した昼間の社内の情景を思い出し、苦い気持ちでイヤホンを耳に差したまま音楽を止めて電車を降りた。オレの好きな男は犯罪者だった。
 公園に向かう。闇夜の裏路地にみゃー子と名付けた猫が生ごみの匂いを嗅いでいる。人々はにぎやかに金曜日の居酒屋から出てハイタッチをしたり、後をついてくる人を気にして振り返ったり。この時間になるとオレの好きな男は公園の公衆便所の個室にいるのを知っていた。会いたい。三十を過ぎた燃費の悪くなってきたこの体も、会いたい人に会える高揚感で少し弾んでいる。コンビニに寄って差し入れを買う。コンビニ前の灰皿には急ぎ足で吸って火を消さなかったタバコが小さく煙を上げ続けていたが、誰も気にしていない様子だった。
 この公園のトイレは男性用の小便器と個室が一つあるだけで、トランスジェンダーのホームレスの男にとって都合の良いトイレだったようだ。世間の人々はこの男の起こした事件のことなどとっくに忘れているだろう。ただ、オレはオレの大嫌いだった父親に暴力を使ってまで攻撃をしてくれたこの男への感謝と愛情があり、やっと二か月前、この男がこの公園に入るところを見つけたのだった。
 誰もいない公園の公衆便所についている電灯が虫を寄せていた。世間的にこの男は細々と生きていた私の父に殴り掛かったというショボい犯罪でつかまったオカマ。キモイ、で一瞥されるだけの存在。相手にされることが全くない「可哀そう」というレッテルすら得られないラベルのない男。ヒエラルキーの底辺。そんな彼にこそ打ち明けたい話が合った。分かち合いたい想いがあった。
「お父さんは元気ですか?」
 トイレをノックするといつも通りの返事が来た。
「とっくに許しているよ。」
 最初から、あの父に立ち向かってくれて感謝しているんだ、とは言わなかった。男の生活がみずほらしくなったことを知っていたから、深い家庭の話は誰にすべきものでもないという常識が邪魔していたから。コンビニの差し入れのビニール袋を少し開けたトイレのドア越しに渡す。少し垣間見えた男の足に濃いすね毛の剃り跡、乾いたトイレ独特の匂い。男は今夜もポツポツと話し始めた。この打ち明け話が聞きたくてオレはここに通うのをやめられない。
「私みたいなさオカマにもアンタの父さんは優しかったからさ…でもひどい人でもあった。ちょっといい人だなって思う人から向けられる悪意って耐え難いじゃない?酢豚の中のパイナップルみたいな。だいたい美味しいのにちょっとのスパイスが気になって酢豚全体を嫌いになるみたいな。あんた、結婚しないの?ってよく言われない?私は言われたよ。母からね。アンタの父さんもよく私に言ってた。家族はいいぞ、お見合いでも何でもいいからとりあえず結婚するのはいいぞって。すっごい余計なお世話だった。でも気色悪いって言われがちな私の唯一の味方でもあった。アンタの父さんを何とかしたいと思っても年下だし、私がこんなナリして普段過ごしているのをアンタの父さんは知っててさ。自分の小ささをまだ諦めていない頃だったから弱点を握られているような気持ちもあったしさ。ねぇ、タバコあったら一本くれない?」
「後で吸ってね。」
 そう言ってタバコとライターをあげた。なんで?という顔をしながら男は受け取った。オレたちの光景は異様だ。夜の公衆トイレでドアをあけ放ち、男と男っぽいオカマが対峙しているのだから。男は続けた。
「テレビでニュースを見るじゃない?そうするとさ、他人事じゃない?他人事だから正論を振りかざせたり、被害者に寄り添うべきだなんて言えるんだと思う。事件を起こした側の私が言うことじゃないんだけど、暴力ってさ、暴力する側がいなくなることが大切だと思うんだ。被害者救済は当然として、加害者の心が立ち直っていかないと犯罪の根絶はありえないしなくならない。私が君のお父さんに全力で殴り掛かったみたいに、あなたのお父さんが罪人ではないが人を傷つける発言が多かったみたいに、被害者と加害者っていう単純な構図はもしかしたらないのかもしれない。被害者面した人をしたから突き上げる力で傷つけるやつがいたり、一見加害者のようだけど被害者の挑発に乗ってしまっただけの人がいたり。私とあなたはさ、加害者と被害者家族が話している構図じゃない?こういう構図が大切だと思うんだよね。」
「アンタさ、絵を描くの?」
 オレは唐突に聞いてみた。構図、という言葉が絵を描くか写真を撮る人のそれだと思ったから。
「なんで気づくのかな。そうだよ。私、絵を描きたい。今の話も私が私の希望を失いたくないっていうエゴなのかもしれないね。」
「希望を失いたくないってのはエゴじゃないんじゃないかな。どんな絵を描くの?」
「炎…。」
 炎か、その言葉を聞いたらなんとなく生い立ちが分かる気がした。世界を燃やすように消したい気持ちが、オレの父親に殴り掛かる、父を引き寄せる原因になったんじゃないか、と。オレは言った。
「世界を消し去ってやりたかった?そういう気持ちなら、分かる気がする。」
「うーん、どうだろう、ただ綺麗だなと思って炎を書いてたけど、犯罪の萌芽はすでにあったのかもね。ははは。」
 沈黙が流れた。オレは軽く会釈をして公衆便所を後にした。アイツは人目を避けて生きているけど、オレだって同じだ。人目を恐れて生きている。でも、大きな声を発することができない沈黙しがちなこの口だから、世界の不幸とじっくり向き合うことができているのかもしれない。男とはいつもこういう本質的な話になる。それが世界を救うわけでは全くないだろうが、大切な話ができるのは気分が良いものだった。オレはアイツが好きだ。性的な意味は全くないし、その日暮らしのアイツはもうしばらくしたら姿を消すだろう。網膜の裏に、男が描くという鮮やかな緑色の炎が映った気がした。

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