肖像を撮る
1
去年の秋、肖像を撮らせていただいた方がこんな言葉をくださった。お届けした写真をご覧になった感想だった。
この言葉のおかげで、誰かの肖像を撮るとき、僕が何を願っているのか、教えてもらえた気がした。生きることが漂い続けることなら、船を港に導くように、そのひとの時間に錨をおろすこと。いま、このときのあなたを停泊させ、記憶すること。
写真は、記憶の港だ。
じぶんが写っている写真をふと目にしたとき、ひとはその写真を離れ、思いのなかの旅に出る。その頃じぶんがいた場所のこと、人知れず抱いていた気持ち、それから身に起きたいくつものできごとが、物語となって再生されるのだ。意識は広大な領土であり、ひとはそのなかを自由に行き来できる。そして、港があればそこに帰ることができるのだ。
あなたが世界に存在したこと、みずみずしい感情があったこと、生きていこうとする姿が美しかったこと。それを言葉ではなく「写真」に残し、伝える。そうだった。僕が肖像を撮ろうとするとき、願うことはそれだった。
撮影のすこし前に、とても悲しいできごとがあり、「がらんどう」になったような気持ちだったという彼女は「撮ってもらえたら前を向くきっかけになるかもしれない」と考え、依頼してくれた。撮影中、「ものすごく悲惨な顔をしていたらどうしよう」と心配していたのだと、後になって教えてくれた。僕は撮影しながら、彼女はきっと大丈夫だと思っていた。でも、直接は伝えなかった。知り合ったばかりの僕が大丈夫という言葉を使うのは、ふさわしくないような気がしていた。
その代わり、彼女が生まれながらに持っている光を写そうと思った。ひとには、肩書きや成果、そういう後から得たもので左右されない、生まれたとき、その胸に灯った光がある。それを写すことができたら、言葉よりたしかに僕の思いは伝わるはずだ。僕が「大丈夫」と言うより、写真を見た彼女が「大丈夫」と思えたほうがずっといい。
2020年の夏、僕は「ひとの肖像を撮りたい」と強く思い、時間が許すときに撮影依頼を受けるようになった。これまでも肖像写真はたびたび撮ってきたけれど、より深く、ひとを撮ることをしたいと思い、新しいカメラを買い、新しい気持ちで撮りはじめた。
撮影場所は、そのひとの思い出の場所だったり、僕が思いついた場所だったりした。そのとき、ふさわしいと思う場所を選び、世界に突如出現した新型のウィルスに気をつけながら、ほんのひととき、おなじ土を踏んで歩いた。いま思うと、それはまさに時間に錨をおろしていくための儀式のようだった。
2
彼女は東京の西にある静かな街に暮らしていた。その夏、大学を卒業し、自分で決めた道を進むのだと言っていた。この街が好きで暮らしはじめたけれど、忙しく過ごすうちに卒業を迎え、ゆっくり街を歩いたことがないと気づき、「いまこの街にいるじぶん」を撮ってもらえたらと依頼してくれた。
永遠に続くかと思うほど長い雨の日々が終わり、ここから夏がはじまったとはっきりわかるような暑い日だった。日なたを撮ると、街は真っ白に写った。日陰で撮るとかならず、どこからか木漏れ日が落ちた。まだ出歩くひとが少ない日曜の朝、よい光をもとめて街をゆっくりと歩いた。
生まれた家のこと、そこを飛び出して上京したきっかけ、東京にいる理由。そして、じぶんが進んでいく道が見えたときの喜び。彼女は明るい口調で、しかし不安も隠さずに、ここに至るまでの物語を聞かせてくれた。写真を撮られながら、彼女は過去と現在を行き来していた。そのこころの旅を追うように撮り、歩いた。
仕上がった写真を送ると、彼女はとてもよろこんで「遺影にしたい」と言ってくれた。お母さんに見せたら「見合い写真にしたら」と返事があったそうだ。どちらも最上級の誉め言葉だと思った。
3
彼女が望んだ場所は、多摩川の河川敷だった。そこは「ひとりになりたいときに、そっと居させてくれた、自分にとって大切な場所」だと教えてくれた。復職するまえで「再出発する決意を人の形として撮って頂きたくて」と依頼してくれた。
この日はたぶん、去年の夏のなかでも、いちばん暑い日だった。天気は快晴。僕は夏の朝の光が好きなので、早い時間に撮ることをおすすめして、8時に集合したのだけど、すでにこれが暑さの頂点ではないかと思うほど暑かった。
撮影の前夜、彼女はお気に入りのピアスを机のうえに置いて眠ったのだけど、翌朝、なぜかピアスは消えていた。どこを探してもないので、代わりにおばあちゃんからもらったピアスをつけてきたと教えてくれた。撮影が終わって帰ると、用意してあったピアスは愛犬がいたずらして隠してしまっていたことがわかったそうだ。代わりにつけていたピアス、そして変えたばかりという眼鏡が、よく似合っていたのを覚えている。
大切なひとと一緒にいるとき、じぶんがどんな顔をしているか、ひとはあまり知らない。たとえば、恋人や友だちと夢中で話して笑ったりする瞬間。生を象徴するような、そういう瞬間の表情を、ひとはじぶんで見ることができないのだ。
大切なひとが見ているあなたの姿を撮れたらいいと思う。あなたは、こんな笑い方で、こんな仕草で、大切なひとを見つめているのだと教えたい。知り合ったばかりの僕がそんなふうに思うのはおこがましいことだけど、それを撮りたいと願うことは大切だと信じている。
余談だけど、後日、デートのときに恋人が撮ったという彼女の写真を見せてもらった。それはとてもよい写真だった。ちょっと悔しかった。そして、この気持ちを忘れないようにしよう、と胸にしまった。
4
「遺影を撮ってほしい」と依頼されたのは、夏が終わる頃だった。
彼からのメールを何度も読み、僕はその依頼を引き受けた。彼は、僕がツイッターに載せた写真や言葉を見て、声をかけてくれたそうだ。ずっと死と向き合ってきたひとが遺影を撮ろうと決めたとき、思い浮かんだのが僕だった。それが嬉しかった。それに応えることが、僕が写真を撮り続けてきた意味だとも思った。ひょっとしたら最期になるかもしれない写真を、僕に依頼してもいいものか迷ったと彼は言ったけれど、僕はどんな未来であろうといまを撮ろうと決めていた。
撮影する場所は想像できないと彼は言っていた。僕は「遺影」という言葉に導かれて、ある場所が思い浮かんだ。こころに病を持ったのひとが行動をおこそうとするとき、実現には大変な困難を伴うことを、僕は心得ているつもりだった。それでもあえて、「海に行きませんか?」と彼に尋ねた。彼は行きたいと答え、でも薬の影響で、当日起き上がれないかもしれないと心配していた。そうなったらそのとき考えることにした。それを決めたのは撮影前日の夜だったので、僕たちはひとまず、それぞれの眠りについた。
そして、僕たちは海に行った。
海は秋だった。夏が去った後のどうしようもない寂しさが風になって頬を打った。砂浜を歩くと、雲ごしの光が、彼の髪や鼻筋や腕を等しく照らし、その姿がこの世界にあることを示していた。彼に「遺影を」と言われ思い浮かんだ景色がそこにあった。
静かに話をしながら、何枚も写真を撮った。日が沈む頃に海を去り、それぞれの日常へ帰った。疲れていただろうに、その日のうちに彼は撮影料の振込みをしてくれた。急がなくてもよかったのにと思ったが、それを見透かしたように、彼から「明日どうなってるかわからないので」とメッセージが送られてきた。
翌日、僕は48枚の写真を選んで、彼に送った。返事はしばらくなかった。僕は彼が写真を見てどう感じたか知りたかったけれど、きっと写真を見る力がでないのだろうと思って待っていた。
1週間ほどすると、彼からメッセージが送られてきた。あの日から動けなくなって、ひたすら家に閉じ籠っていたと教えてくれた。そして、彼はじぶんの気持ちを長い文章にまとめたと言って僕に読ませてくれた。僕が送った48枚の写真を見たとき、彼はこう感じたそうだ。
ショックだった。じぶんなりに全力を尽くし、よい写真が撮れていると思ったから。でも、写ってくれたひとがピンときていないなら、それは力が及ばなかったということだ。
彼はその後、いろんな友だちにその48枚の写真を見てもらった。遺影にすると言ったり、それを言わなかったりして、そのひとがよいと思う1枚を選んでもらった。すると、友だちはみな、それぞれ違う写真を挙げた。「この中にはない」と言った友だちもいた。「でも、ぜんぶ○○(彼の名前)が、いつもする表情だ」と言ってくれたひともいたそうだ。
そして、彼は1枚の写真をじぶんの遺影に選んだ。
この写真を遺影にすると教えてもらったとき、僕は、ああ、と思った。言葉は出てこなかった。そのときの感情を正しく表せる言葉を、僕はいまも見つけられないでいる。
今年のはじめ、彼がメッセージをくれた。
僕が思いもよらない方法で、彼は彼の遺影を見つけていたのだと思った。僕は僕が思う方法でしか肖像を撮れなかった。それでも、写真が残されたから、見出されるものがあったのだ。
写真は、記憶の港になる。
その事実を胸に、僕はこれからも肖像を撮ろうと思う。
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