都内周遊~お墓巡り(谷中霊園篇)
三ヶ月ぶりの定期通院。数値はさほど悪くないが、血糖値が少しずつ上昇気味。脂っこいものを少し控えてとは主治医の先生のお言葉。
健保のビルを出てからいつものごとくお茶の水の丸善による。最近は本屋に入っても一冊も本を買わないで出てくることが多い。今回もそうだった。先日、友人たちと話をしていて太田愛が面白いという話が出ていてちょっと興味を覚えたのだが結局買わずじまい。本をぜんぜん買わない、読まないのかというと、そうでもない。テキスト類は2~3冊併読しているし、レポートとなると関連書籍も数冊読むのは常態化している。けっこうヒーヒーのフーフーでもある。
丸善を出てからは、久々ブラブラしようかと思い、聖橋を渡って湯島聖堂を右手にみてそのまままっすぐ進む。湯島の界隈なのだが、大昔はラブホテルが多いところだったけど、今はずいぶんと代わっていてそういうホテルはほとんど影も形もない。ほとんどが建て替えられて、普通のビルになっている。なんとなく昔の面影が残っているホテルをひとつ見つけたが、そこも多分かなり改装されていて、普通のシティホテル風になっている。多分、外国人観光客が利用しているのかもしれない。
そのまま直進すると湯島天神にぶつかる。
湯島天神
ここを訪れるのは10数年ぶりだろうか。たしか子どもの高校受験の時に、妻と二人で願掛けに来た。残念ながら子どもは第一志望の公立高校には落ちて私立高校に行くことになってしまった。ということでご利益はなかったということだ。もっとも落ちた高校より私立のほうが偏差値的には高いという微妙な部分もあるにはあったけど。
境内では梅まつり(3月8日まで)が開催されていて、ウィークデイの昼下がりだというのに、けっこう人が出ていた。元気な高齢者、外国人、学生、まあ観光名所はどこも、そんな感じだろうか。
梅はというと、まあ時期的にはすこし盛りが過ぎている感じだったが、華やいだ雰囲気はあった。
上野~根津~千駄木
湯島天神を抜けてから上野池之端を歩いて、根津のあたりをぶらぶらする。このあたりは下町という感じがする。ぽかぽか陽気でとっくにコートを脱いで腕にかけて歩いていく。
途中でいったん坂を上って東大の方に行ってみることにした。それからまた戻る感じで根津神社にでも行こうかと思った。根津神社に最後に行ったのはどのくらい前だろうか。たしか日本医科大学病院に入院していたかっての職場の後輩を友人と二人で見舞いにいった時だった。後輩は重い肝硬変でかなり危ない状態だったが、自分たちが行ったときは普通に話もできた。病院を出てから、友人と二人ですぐ近くの根津神社を歩きながら、快方に向えばいいねとかそんな話をしたんだと思う。
後輩はそれから一か月くらいで亡くなった。通夜にかけつけ対面したときには、なぜか一気に涙がでてきた止まらなかった。二歳下、ほぼほぼ同世代。自分とはそりが合わず、ぶつかることも多かった。でも彼を含め当時の同僚とは毎日のように酒を飲んだ。二十代の様々な記憶が錯綜する。
根津近辺を歩くと微妙に感傷的になるのはそんな記憶があるからでもある。ただし今回は道を間違えたのか、根津神社の方にはいかなかった。歩いていくとほとんど白山の方に来てしまい、慌てて千駄木方面に曲がった。その日は久々、墓地巡りということで谷中霊園に行ってみようと、途中で方針変更。というか歩いていてなんとなく目的地が決まった。
森鴎外記念館
近くへ行くと森鴎外記念館とある。しかも月曜日なのに開館している。ということでちょっと入ってみる。
ここは森鴎外の旧居跡地(通称観潮楼)に建てられた記念博物館。鴎外はこの地に1892(明治25)年から亡くなる1922(大正11)年まで過ごした。この記念博物館は、鴎外の遺品や関連資料の収蔵・整理・展示を目的として2012年に開館したのだとか。
そうか鴎外は関東大震災を知らずに亡くなったのか。死んだのは60歳だったとか。夏目漱石はたしか1916(大正5)年に49歳で亡くなっているのだが、二人の文豪は昭和を知ることもなくこの世をあとにしたんだと、改めて思ったりもする。そして今更に思うのだが、自分はとっくに漱石や鴎外の年齢を超えていることに驚いたりする。まあ平均寿命が100年前とは大きな違いがあるとはいえのことだ。
鴎外のこの観潮楼は有名だが、たしかそれ以前に住んでいたのは駒込千駄木町の家で、「千朶山房(せんださんぼう)」と名付けて1890年(明治23年)から2年間暮らした。それから11年後、その家は夏目漱石が3年間住み、そこで『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を執筆した。この家は愛知県犬山市の明治村に移築され、いまでも公開されている。以前訪れた時に、ここに鴎外や漱石が住んだのかと思ったりもした。こんな家だったか。
森鴎外記念館内の展示室は地下にあり、鴎外の年譜にそって資料類(手紙、原稿など)が展示してある。面白かったのは、二度目の妻志げと結婚したときに友人に送った手紙の内容。鴎外は40歳で志げは22歳、二人とも再婚同士だったが、志げは美人の誉が高かった。手紙にはこう書き記されている。
いくら若い後妻が美人だとはいえ「美術品のような」は言い過ぎだろう。とはいえどこか相好をくずしているようなそんな面持ちも想像できたりする。
常設展示とは別にコレクション展として「コレクション展「近所のアトリエ―動坂の画家・長原孝太郎と鴎外」が開かれていた。こちらはさっと流し見した程度。
岡倉天心記念公園
団子坂を下って少しいったところに標識があったので、曲がって細い道を少しいったところにあった。岡倉天心の旧居跡地で、ここで日本美術院を立ち上げた。小さな公園だが、奥に小さな六角堂がある。
なかを覗くと金色の岡倉天心像があった。あとで調べたら平櫛田中の作だとか。
月曜日の昼下がり、ほとんど人がいない。自分と同じような年配者が一人、二人坐って休んでいるくらい。多分、御近所さんだろうか。
全生庵
岡倉天心記念公園を後にしてもと来た道に戻る。この道は都道452号線、通称神田白山線といい白山から谷中墓地にぶちあたり、そこから上野公園の方に向かい神田まで行く道路。
戻って谷中墓地を目指して歩くとすぐ右側にやや大きなお寺が。というかこのへんはとにかくお寺が多く、感覚的には100メートルおきに大小の寺社があるような感じ。このお寺は全生庵という。入口に山岡鉄舟、三遊亭圓朝の墓があると案内が出ている。
三遊亭圓朝
近代落語の祖みたいな人か。この人の落語の速記本が近代文学の言文一致に影響を与えたとか、そのへんを去年学習したような。レポート書くため『真景累ヶ淵』を読んでから二葉亭四迷の『浮雲』を読んだ。たしかに『浮雲』の言文一致は口語体というより、調子のよい語りで落語のべらんめえな感じがあった。いってみれば初期の言文一致は口語体というより戯作調だったような。まあこれは別の話だ。
圓朝のイメージというと、鏑木清方の絵が思い浮かぶ。近代肖像画の傑作として重文指定される一作。
山岡鉄舟
幕末の幕臣。駿府で西郷隆盛と会談して江戸城無血開城への道を開いた。幕末ものには必ず出てくる人でもある。大河ドラマ『勝海舟』で宍戸錠が演じていたのをなんとなく覚えている。あのドラマは1974年放映だからもう50年も前のことになる。やれやれだ。
宍戸錠が演じたということもあり豪放磊落の人というイメージがあるが、実際の鉄舟は身長188センチあったという説もあり、当時としては巨人の部類に入るのではないかと思ったりもする。江戸時代のガタイのでかい人というと、たしか高山彦九郎も180センチ以上あったようが、山岡鉄舟はそれ以上の人だったようだ。
この全生庵自体、山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々を弔うために発願し、1883(明治16)年に創建されたのだとか。
谷中霊園
23区内の由緒正しい大きな霊園といえば、青山霊園、雑司ヶ谷霊園、染井霊園などとともに有名な谷中霊園。ここは都営の谷中霊園と上野寛永寺の墓所が隣接しあっている。いつものことながら、事前に調べたりを一切せずに巡ってみた。
徳川慶喜
言わずと知れた徳川十五代、最後の将軍である。墓は谷中墓地に囲まれるようにしてある寛永寺の墓所の一角にある。周囲は塀で囲まれていて、一部は改修中のように近づけないようになっていた。
全生庵の山岡鉄舟は慶喜が直々に依頼され、恭順の意と無血開城、自身の身の安全を西郷隆盛に申し入れたという。
渋沢栄一
日本資本主義の父とも称される人物。この人も大河ドラマ『青天に衝け』で話題になった。埼玉県深谷市出身のため埼玉では郷土の著名人としてなにかと話題に出る。
そういえば新1万円札はこの人の肖像になるときいたが、あれはいつからだったか。調べると今年の7月からという。新札で自販機とか、両替機とかの入れ替え需要とかもあるかもしれないけど、逆に対応できずにシンドイ思いをする企業も多いのではないか。ひょっとしたら新札倒産とかもあるのか。あとはキャッシュレスが加速化しそうな気もする。まあこれもどうでもいいことだ。
菊池容斎
幕末から明治初期に活躍した画家。画家としての評価よりも、有職故実を研究して表した『前賢故実』が有名。弟子には松本楓湖、渡辺省亭らがいる他、梶田半古も私淑した。梶田半古は弟子の小林古径、前田青邨らに繰り返し『前賢故実』を書写させた。そういう意味では近代日本画における歴史画のジャンル誕生に菊池容斎が果たした功績は大きい。
実作もいくつか観ているのだが、覚えているのは東京ステーションギャラリーで開催された「コレクター福富太郎の眼」展に出品されたこの絵。
福地源一郎
幕末の幕臣、明治初期のジャーナリスト、小説家、劇作家。東京日日新聞の社長など多方面で活躍した人。福地桜痴とも称した。
高橋お伝
明治の毒婦。強盗殺人及び密通により斬首された女囚。芝居や落語などの題材にもなっている。これは墓というよりも高橋お伝の碑であり、1881(明治14)仮名垣魯文が音頭を取り、お伝を題材にした芝居等があたったため、歌舞伎役者や落語家の寄付で建立されたという。
横山大観
いわずと知れた日本画の大家。この墓は偶然見つけた。というよりも谷中霊園には著名人の墓を案内するような地図や案内板の類がほとんどない。なのでぐるぐると巡りながら、探していくような感じになる。もちろん大観の墓が谷中にあることも実は知らなかった。
鳩山一郎
横山大観の墓の右隣にあった。鳩山一郎は、戦前、戦後の大物保守政治家。日ソ国交樹立に貢献した人物である。この人の一族はまさに華麗なる一族といえる。父親の和夫は弁護士かつ法学博士・政治家、弟の秀夫は民法学者で我妻栄の師でもある。50年近く前の法学部生にとっては一粒社刊の我妻民法、通称ダットサンにはずいぶんとお世話になった。我妻先生の師匠というだけで畏敬の念をもったりする。
一郎の息子威一郎は大蔵官僚として主計局長まで上り詰め、その後は参議院議員を3期務めた。そしてその息子が総理大臣にもなった鳩山由紀夫と自民党、新進党、民主党などを渡り歩いた鳩山邦夫だ。そういえば鳩山邦夫も2016年に亡くなっている。
この墓所には鳩山一郎、威一郎などの墓があるが邦夫の墓はないようだ。華麗なる鳩山一族の墓所としてはちょっと小ぶりかなと思ったりもした。
佐藤一斎
江戸時代後期の儒学者。この人はなによりも渡辺崋山の肖像画として有名である。江戸期の写実的肖像画の嚆矢ともいうべき名作であり、重文指定もされている。トーハクで何度か目にしているが、儒学者の精神性が見事に描かれている。
朝倉文夫
けっこう立派な墓だなあと思い足を止めた。朝倉文夫、なんとなく聞き覚えがあるなとしばし考える。そう、彫刻家の朝倉文夫だった。東近美でよく観た《墓守》が代表作だろうか。
これも重文指定作品である。東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫の代表作。谷中天王寺の墓守をモデルにしたというが、どう見ても墓守に見えない。西洋の哲学者然としている。明治期、西洋の技法、作品を受容して作り上げたものなのだろう。同じような印象を受けたのは、例えば原田直次郎の《靴屋の親爺》。あれも靴屋にやっぱり見えない。ギリシアの哲学者の肖像画のようだった。
谷中墓地のすぐ近くに朝倉彫掘館がある。これも偶然前を通りかかった。月曜日は休館のようだが、まあ見つけたのがすでに6時を回るような時間でもあった。
今回の周遊
今回のぶらぶら歩き、都内徘徊、もとい周遊、最後に最寄り駅に着いてからiPhoneアプリを開いたらジャスト18キロとなっていた。これはちょっと歩きすぎかもしれない。もうアラフィフというよりアラセブに近いだけに無理しすぎたか。
しかし墓巡りはちょっと楽しい。様々な人々の人生が記された墓誌の集合体でもある。余裕があれば著名人だけでなく無名の方の墓誌などをみて、その方の人生を思い巡らすのもいいかなどと思ったりもする。
今回歩いたコースはだいたいこんな感じだったか。
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