目白村だより15(フランスの想い出⑤)


絵画史に残る「メデュース号の筏」(ジェリコー)

パリ9区、ナヴァラン通り(私の長く住んだアパートがあった)を右に出ると、マルティエ通りがある。ロレット教会からモンマルトルへ向かう(サクレクール寺院が見える)下町でも山の手でもない街中を通る長い坂道だ。
住み始めた当時は、ちょうど昔の東京神楽坂のような、カフェや総菜屋やそれほど先端ではないブティク、界隈で有名な魚屋、古本屋などが、ずっと続く庶民的な通りであったが、今はすっかり様変わり。高級ブティク、お菓子屋さんが並んでいる。
もっとも、19世紀には、この道は既に有名で、建物はこの頃の建築が多く、建物の2階(日本では3階)に道路を見下ろすようにバルコニーが付いている。なんでも、当時の馬車の高さを基準に作られたバルコニーで、そこから手や扇をひらひらさせる高級娼婦のイメージが湧いてくるような処でもある。
この通りには、テオドール・ジェリコー(1791~1824)の厩(うまや)兼アトリエがあり、親友のドラクロワも良く通ったという。
ジェリコーは、ロマン派の作家の一人といわれるが、私は、クールベ等の先輩、写実主義の画家として捉えている。古典主義から自然主義に移る重要な時代、ロマン主義運動の前衛であったジェリコーは、バルビゾンの画家たちにも愛された。

劇画「ジェリコー」

ジンガロZingaro(ジンガロ乗馬劇団)の主催者バルタバスは、1993年に「ジェリコー・マゼッパ伝説」という映画を作った。この映画などが、ジェリコー再々注目の基になったと思われる。この映画で、バルタバスは、フランコーニ(ジェリコーに馬の本質を教えた18~19世紀前半の有名な馬術師)役で、自分も出ている。
彼は、まさに150年前、ジェリコーが住まったマルティエ通りの近くに住んでいて、私は、何度もすれ違った。比較的小柄なフランス人の中で、190センチ以上は有りそうなバルタバスは、目立ちまくり、遠くから歩いていてもすぐわかった。
ジンガロは、1984年から始まった騎馬による曲芸ショーだが、非常に芸術的で、その公演は、回をますごとに話題となり、あっという間に世界的名声を得た。
様々な国籍の団員が、日ごろ訓練した馬と、まさに人馬一体の曲乗りを繰り返すのだが、そこに民族音楽や歌、照明が組み合わさり、なんともまだ見た事のない幽玄な世界が登場する。
木で作られた専門の円形の劇場があり、公演はいつも夜、薪がたかれ、バンショ(熱いワイン)がふるまわれる。
私も、パリ郊外まで、何回か演目の変わるたびに出かけたが、回を重ねる度に、客も増え仕込みも豪華になっていった。個人的には最初の頃の作品が圧倒的に素晴らしかったと思うが、どちらにしても言葉では説明仕切れない、素晴らしい感動があり、ヨーロッパ文化の奥の深さを、新鮮な視点で感じさせられる。

ジンガロは、日本でも数回来日公演をしている。絶対海外公演は無理だといわれていたが、私の先輩、ノリちゃんこと芳賀昭八郎率いる招聘プロデュース会社(カンバセーション)が、検疫通過に苦労に苦労を重ね、木場に特設会場を作り、2005年ついに最初の公演が実現した。エルメスがバックスポンサーについて、なんともファッション的な(そうしないと日本では興業がなりたたない)見せ方をしていた。エルメスは、フランスでも馬具などを前面提供していて、ジンガロの持つ、本物感を下支えしている。日本のアパレルが、後ろ盾しても、なかなかこういう洒落たかたちにはならない。(資本力の問題も大きいが文化の捉え方の問題であろう)
私は、楽屋裏まで見せて貰ったが、床には白墨のような薬のまかれた境界が引かれていて、なんとも物々しい警戒ぶりであった。
バルタバスには、楽屋で紹介されたが、その日の出来がよくなかったのか、不機嫌だった。
後日、バルタバスの熱烈なファンである有名脚本家の熟女が、バルタバスと話したくて何とか居酒屋の打ち上げに潜り込んだが、美食家の彼女が、バルタバスの目の前でうっかり(馬刺し)を、注文してしまい、口もきいてもらえなかったという面白い話も聞いた。
バルタバスは、ジンガロ(ジプシー)出身の様に、宣伝されているが、実は、ジプシーとは関係がなく、フランスの名門の生まれであり、そういう意味ではジェリコーに重なる。
私が少し声楽を習った、アルジェリア人の歌手エレーヌは、最初のジンガロで歌い、その後、座員の歌唱指導もしていた。彼女から、バルタバスの話を、いろいろ聞かされたが、彼は、特別に(変人)だという。私からすれば、エレーヌも相当変わっていると思うのだが、その彼女にして変人といわしめるバルタバスは、1から10まで、馬の事しか考えていないらしい。

バルタバス(怖い!)

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