目白村だより28(ジャンゴ・ラインハルト


クリニャンクールのジャンゴ専門ビストロ(中央)

ジャンゴ・ラインハルト(1910~1953)の事を、知ったのは、薮内久さんからである。薮内さんは、お父さんがリヨンの公使を戦前から努められて、その関係でフランスに育ち、戦前のSPから戦後のLPまで、多分日本で一番レコードを持っていた人だ。彼の映画愛、シャンソン愛は、今でも語り草で、私も少しお手伝いした本「シャンソンのアーティストたち」は、マニアのバイブルとまでいわれている。その薮内さんは、ブラッサンスとティノ・ロッシそしてジャンゴ・ラインハルトが、特別に好きだった。
私は、フレンチジャズの原点だよ、と言われてジャンゴを聞かされた時には、大変に新鮮ではあったが、ピンと来なかった。その頃のジャズのイメージは進駐軍バンドの音、戦前のビッグオーケストラ、または新宿などの煙草もうもうのジャズ喫茶やピットインなどで、聞いていたビバップだったからだ。モダンジャズを、ダンモなどと言って、粋がっていた若造には、弦楽器ばかりで、構成されたジャンゴのBAND(ホットクラブバンド)は、ちょっと民族音楽の様に聞こえた。70年代前半の話である。 
今回、4回連続LIVEのフライヤーを作ってもらい、ジャンゴを知らない人が、沢山いる事に改めて気づかされた。80年代あたりから、ステファン・グラッペリと共に、ジャンゴの音楽は、ゆっくりと浸透したけれど、それでも日本では、まだ十分に知られているとは言えない。ジプシー出身の彼、そのジプシー自体があまりに、日本とは遠い存在だ。
ジプシーもその出身により、違いがあるが、一般に大都市で暮らす彼等にはスリ、置き引き等の犯罪が目立ち、イメージ的にも、ジプシー=悪さをする、に結び付いてしまっている。ヨーロッパ各国でこの問題に頭を悩ませているが、一般には、東欧系なのか、フランス系なのか、スペイン系なのか・・・そんなことは、わかりようがなく、ひとからげでロマ(ジプシーより一般的)と呼ばれ嫌がられている。
そんなジプシーの中の、数少ない出世頭が、ジャンゴである。ジャンゴは、ベルギー生まれで、フランス語圏で育ったが、一番大事なのはパリという環境で育った事であろう。
彼の育ったクリニャンクール界隈は、パリの最北、モンマルトルの後ろ側である。
巨大な蚤の市があり、昔は、ここで日本人女性がさらわれたという噂があった。今も何となく犯罪の匂いが立ち込め、観光客の一人歩きには、むかない街だ。それでも、蚤の市の開かれる週末は、人で溢れかえる。メインの通りには、ジャンゴの曲ばかり、演奏するビストロがあり、ここはいつも観光客で込み合う。没後70年でも、人気があるのは凄い事だ。クリニャンクールから、パリに入るモンマルトルあたりには、昔ジャンゴが演奏したといわれるBARなども少し残っているが、踊れる大きなレストランクラブは、大体70年代には、DISCOに追われて姿が見えなくなってしまったが・・・。
ジャンゴの曲に歌詞のあるものは、公的には1つ。「NUAGE」だけである。
「 Manoir de mes rêves 」にも誰かが、詞を勝手に付けているようだが、これも入れると2つになる。「 Manoir de mes rêves 」を唄おうと今回調べたが「夢のお城」というタイトルのお城は、Manoirの語彙ニュアンスからして、城塞のある城ではない。どうやら夢の館とか、棲み家とした方がよさそうだ。
ジプシーは、根無し草、家を持たない者が多いなかで、ジャンゴが最後に住んだ家が、サモア・スュル・セーヌ村にある。フォンテーヌブローの森のはずれで、別荘地として有名である。ここに彼の墓がある事も知っていたが、行ったことはなかった。

ジャンゴの館。中央の白い家。

しかし縁は異なもの。友人が、今年の夏ここでヴァカンスしたといって、なにげなく見せてくれた写真に、ジャンゴの家が映っていた。光を浴びた、まるでルノワールの浴女が出てきそうな、光あふれる水辺。そこにみえる白い館。・・・私は、島の中にあるというジャンゴの家の写真で、一遍に彼のManoirを理解した。そうして、なんとか日本語の詞を付ける事が出来た。  
※青山ZIMAGINE・LIVE(ジャンゴ特集)11月30日に歌います。


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