目白村だより11(フランスの想い出①)

パリ9区中心のオペラ座(戦前の水彩画です)

パリに住むようになってから、100年前に戻ったような感覚を、度々覚えた。
19世紀の建物が多いから、当たり前なのだが、私のアパートはセーヌ右岸、ちょうどモンマルトルの麓にあたる9区の上の方で、「モンマルトル大聖堂」が目印の18区もすぐ近く。歩いて15分圏内には、有名な「洗濯船」や、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」「ラパンアジル」「ムーラン・ルージュ」が現存する。
また、坂を下りてゆくと、「ギャラリー・ラファィエット」「オペラ座」「商工会議所」…
と大型名所が、目白押し。まるで観光名所の中に住んでいるようで、2年もすると、変なガイドよりよほど詳しくなってしまった。
住んでいたNAVARIN通リのアパートは築100年は経っていて、女性や子供が開けるのは大変な程、扉が重かった。後づけのエレベーターが、あるのだが、無理やり螺旋階段の真ん中に通したもので、人が2人乗ればやっとで、のろのろと降りて来るのを待つのも時間がかかり、私はよく4階の部屋まで、歩いたものである。
だがパリには、エレベーターのないアパートもたまにあって、そういった建物の屋根裏部屋等は、家賃は安くても、とても住む気にはなれなかった。

私が、バルビゾン派の版画を中心に、19世紀のフランスの版画を集めだしたのもモンマルトルに染みついた彼らの磁力の影響がある気がしてならない。
モンマルトルに住むことは、圧倒的にモダンな絵画が好きだった私に、印象派以前の19世紀のアーティスとたちの存在感を街ごとで教えてくれる事になった。
9区の私のアパートのまわりには、沢山の画家のアトリエだった場所があり、ジェリコーやトロワイヨンやディアーズ、ミレー、シャルル・ジャックといった19世紀を代表する画家たちが住んだ通りが、すぐであった。彼等は、ほとんどバルビゾン派(正確にはフォンテーヌブロー派なのだが、通りやすいので、使う事にした)と、後に言われた画家たちである。
最初モンマルトルに住み、のちにバルビゾンに移住したミレーは特別として、大体の画家は
バルビゾンではガンヌ旅館という安宿に泊まり、モンマルトルにアトリエを構えている画家が多かった。
私の好きな、シャントルイユが、お向かいに住んでいたと知った時は、やはりびっくりしたものだ。
アパートを左に歩き、サンジョルジョの坂を下りるとルノワールが晩年アトリエにしていた建物があった。そこはかなり美味しいブルターニュ料理の店(ティコーズ)だったが、現在は変わってしまった。(ティコーズ)まで行く手前には、大きな扉の中庭のあるアパートがあり、小津たか子さんが住んでいた。彼女は、東北大で仏文を学び、東京の劇団“民芸”のプロデューサー(女優もしたらしい)になったが、たまたま英米文学、とくにシェークスピアの研究家で有名な、小津次郎さんが、劇団に講師で来た時に意気投合、結婚した。その御主人が、亡くなってから、遺品なども整理して、単身パリに住んだ。
それは1993年だというが、私と会ったのは、2000年になってからである。我がアパートから数百メートルのたか子さんは、異国で一番近くに住む日本人なのに、ヨシ笈田さんから紹介されるまでは、すれ違った事もなかった。
彼女がパリに来た一番の動機は、有名な本「オペラ100選」のオペラを全部見るために、余生をかけようと思ったから。地の利も良く、チケットが手に入りやすいパリで、粘りに粘り「全部見終わった」と嬉しそうに話すのを聞いたのは2005年ころだと思う。最後の演目が、何だったのか、ヴェルディだったと思うのだが、その時は聴いたのだが、思いだせない。
たか子さんは、ベレーなどを粋にかぶり、なんともモダンな昔の新劇女優の様で、そのころの古い演劇の話も、沢山聞かせていただいた。
彼女が、アパートを引き払い帰国したという話は、日本で風の便りに聴いていたが、昨年(2021)暮れにパリで、彼女の愛した「寿司市場」という店に行き、尋ねたら、やはり此処ずっと見かけていないという。
2017年に、私はパリで引っ越しの連絡を取ろうとして取れなかったことを考えると、帰国なさったのは多分2017年前の話なのだろう。
御主人が小津の本家で、分家の監督小津安二郎とは、ほとんど交流もないのに、パリでは小津未亡人と勝手に、思う人がいて困るという話をよく話していた。
その時は、私が、小津安二郎の日記のフランスとの取り持ち役を務たり、何かと小津家と関り生まれようとは、思いだにしなかった。


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