目白村だより9bis(レジーヌ)

(レコーディング時)筆者、レジーヌ、エリック

日本のファッション系ディスコ文化は、赤坂「MUGEN」(1968~1987)から始まったが、この店の照明をプランニングしたのはPECOちゃん事、藤本晴美さんだ。PECOちゃんの師匠は「クレージー・ホース」のアラン・ベルナルダンで、彼の照明で谷洋子が、初めて、ストリップを披露したのも「クレージー・ホース」・・・二人の時代は10年以上違うが、それでもこのつながりには不思議な縁が感じられる。
赤坂「MUGEN」に、続いた「ビブロス」(1971~1987)や「キャステル」(1974)もPECOちゃんなしには成り立たなかった。

ところで私は、日本のディスコ、クラブ文化の源は、パリの「クレージー・ホース」「レジーヌの店」そして「キャステル」あたりに行き着くと思っている。
当時パリで「レジーヌの店」と「キャステル」は対抗馬でもあり、レジーヌ自身も散々、日本出店は考えたようだが、その前に日本版「キャステル」がオープンしてしまい、結局彼女が日本でクラブを開くことはなかった。
日本の「キャステル」はパリの「キャステル」の姉妹店で、パリ店でも働いた、ダイちゃんこと岡田大貳さんのセンスが要であった。世界のスノッブを意識したクラブとして、ナイトクラヴィングの質の違いを逆手に、かなり高額な会員制、厳しい服装チェック等々。それが宣伝となって大流行した。この頃から強まったブランド崇拝と重なるところが、興味深い。
それから、だんだん水商売系の客が増え、日本的な様相となり、その後のバブル景気に乗りながら、幾つもの亜派を生んでいった。
日本の「キャステル」は、ライセンス契約もあり、当の昔にないが、パリの「キャステル」は、経営者がかわり(イギリスの靴屋さん)、現在でも頑張っている。

パリには、ピガールあたりの、娼婦クラブは別として、プライベートな会員制の店が沢山ある。しかし「キャステル」や「レジーヌの店」の様な、VIPに特化したファッション的要素の強い店は、それほど多くはない。
この2店の競争、共存共栄から発展したパリのナイトクラブの文化が、日本に大きく影響していた事は、歴史のベールの中に隠されてしまった感が強い。
レジーヌの引退の原因といわれる晩年(1990年代)彼女の経営していた中で一番大規模なナイトクラブ「ル・パラス」(確か収容人数5000人)はヤク売買の温床として、警察に狙われ大捕り物があり、その後税金問題で閉鎖された。そういった、いくつかの黒い話はあるけれど、彼女の場合は“マダム・クロード”のようなケースとは全く違う。
誰でも入れた「ル・パラス」とは別に、パリ一番敷居の高い「レジーヌの店」に出入りした日本人は多くはないが、レジーヌ自身が常連と認めたセゾングループ(西武)のヨーロッパの窓口、堤邦子とカルダンの片腕にして多くの在仏日本人の面倒も見た高田美、この二人だけとっても、日本への影響はとても大きい。だからこそレジーヌのクラブで彼女たちが人脈を得た“夜の社交界”の歴史が、忘れ去られて行くのが惜しまれる。

2010年代初め、私は、レジーヌから日本での自伝出版OKを貰い、いくつか出版社を当たったが、色よい返事はなかった。彼女の日本での知名度のなさと、ふんだんに登場する貴族や世界的VIPの写真がなかなか使いにくいという問題が大きかった。
現在、彼女が亡くなってしまい、レジーヌの90年の生涯を、さて日本にどう知らせるか、書くか書くまいか、どうしても二の足どころか、三の足を踏んでしまう。
 それは、日本では忘れ去られていた谷洋子を書いた「パリの赤いバラと呼ばれた女」で、ドキュメンタリーの難しさを知った事も大きい。
事実の跡どりも大変だが、真実を書かれたくない人が多いからだ。


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