名前のついた関係

 人間関係には様々な名前がついている。例えば家族や恋人、友達、先輩後輩などが挙げられる。どうやらその名前のついた関係の中には役割があるらしい。

 学生時代に運動部に所属していた人にとっての共通認識は、先輩からの理不尽な「シゴキ」ではないだろうか。これが嫌で部活動をやめる人もいるくらい意味不明な行為である。さらに、練習の準備は1年生が担当するが、練習自体には参加できない(球拾いをする)なども意味がわからない。

 恋愛関係においては、(日本では多くの場合)男性が支払いを行う。もちろん例外もあるが、そのような圧力は依然として存在する。また、各種イベントでは贈り物の交換や食事をまるで義務であるかのようにこなしていく。

 このように、関係性に名前がついた途端に明文化されていないルールが課せられる場合が往々にしてある。正直、あらゆる行為はできる人が、気づいた人がやれば良いのではないかと思っている。

 放課後、後輩が準備してくれるのを文句を言いながら待つのではなく、率先して準備し、早く練習を始めればよい。イベントに合わせて準備するのではなく、お互いの予定を照らし合わせてイベントを組み込めばよい。

 夫婦という関係も同様で、同性パートナーの関係が無視されていたり、これから子どもを作ることを期待されたり、他の異性と交流することを不純とされるなど、様々な制約がなされる。

 社会学者の古市憲寿が「(結婚するパートナーには)自分の遺伝子ではなく、優秀な人の遺伝子を残してほしい」と言っているように、すでに従来の価値観に囚われる必要はないように感じる。

 ある概念を言葉として定義した途端に、切り離されてしまうものがある。それを無視して、狭い関係の中で満足や不満を抱きながら生きるのも良いのかもしれないが、そうはなりたくないと感じる今日このごろ。(雑感)

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