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「IN HER THIRTIES 2021」と創作の不思議①

脚本・構成・演出を担当した舞台「IN HER THRITIES 2021」が終幕し一週間が経過しました。
おかげさまで好評を頂きまして、配信は12月2日までご覧になれますので宜しければ是非→https://v2.kan-geki.com/live-streaming/ticket/501

それで久しぶりに公演振り返り文章を書こうかと思ったのですが、その理由と言えば、正直言って戸惑っているから、です。

何に戸惑っているかと言えば、
「自分が費やした(と思っている)労力に比して、頂く評価が高すぎないか???」
ということなのです。

もちろん手を抜いたわけではないですが、
かなり多くの部分を他部署任せ、そして運任せにした実感は否めず。

が、もしかすると、自分では「労力」にカウントしていない部分にこそ、
今回のプロジェクトの成功(と言って良いのなら)の要因があったのでは……という可能性もあるわけです。

そこを分析し、今後の(労力的にコスパの良い)創作に生かしたい所存です。

※以下、脚本執筆から逃避して積極的に「イカゲーム」完走してた、などという事柄が綴られるので、公演の余韻を大切にしたい方は読まない方が吉かもです※

さて、自分なりに推察した「これが良かったのかな?」という可能性は以下の四つです。

①躊躇し続けていたこと
②自分事にしなかったこと
③榊Pの存在
④人生常に後ろを見がち後悔し続けマンだったこと

①躊躇し続けていたこと

まず稽古序盤に、或いは稽古に入る前、作品の構想時に自分が何をしていたかと言えば、ただただ、
「躊躇っていた」
これに尽きます。

「一人の30代女性が過ごす30歳から39歳までの十年間を、30代の女優十名で描き出す」
という作品コンセプト。
「30代の女優十名で描く」という部分は良いとして、
【この2021年ジェンダーギャップ指数120位・隅々まで家父長制マインドが蔓延る我が国ジャパンに39年間も生息し、無意識レベルで男性特権を享受し続けながら、「女の子って猫みたいで可愛い〜」とか言い続け、ここにきて漸く現在進行形・牛歩牛歩で自身の認識や言動を反省し勉強し直しているシスジェンダー・ヘテロセクシャル・男性】である自分が、
「一人の30代女性の十年間」を、描くとは、、、
という躊躇い。

所謂ストレートプレイ、複数の登場人物が出てくる物語であれば、
ある程度は、それぞれの人物の言動や展開を描くことに集中すれば良いのですが、
「ある一人の30代女性の十年間」は、
描ける(選択できる)ストーリーのルートが一択しかない、
そこでどんな十年間を描こうが、
(30代)女性の生き方を規定してしまうことにならないか、
その作業を、【この2021年ジェンダーギャップ指数(〜中略〜)男性】である自分がやっていいのか、、、
という躊躇い。

じゃあお前は十年前に「IN HER TWENTIES」をやる時に何を考えてたんだ、と言う話ですが、これはもう清々しいほどに何も考えていなかった。

当時29歳の自分がつけた作品のキャッチコピーは、
「切なくてHAPPY、繊細で怒涛、寂しいけど祝祭的な女子の20代。」

挨拶文の冒頭は、
「いつだって可愛い女の子に囲まれたかっただけです。興味があるのは女子のことだけ。自分としてはその到達点のような感じ。」
(続く文章は痛すぎてとても引用できません。)

自分の気持ち悪さは置いておくとして、少なくとも当時は、
20代女性を
「切なくてHAPPY、繊細で怒涛、寂しいけど祝祭的」
と規定することに、なんの躊躇いも無かった、ということになります。

一応、今も昔も自己認識としては、何よりも自由・平等を愛する人間で、
自分や他人に何かを強制することもされることも避けたく、
年齢やジェンダー、その他の出自や環境に関わらず、それぞれが好き勝手に生きられる世の中が理想だと考えております。

絶句するほどに前時代的な多くの自民党員とも、ましてや「幸せそうな女性を殺してやりたい」などと言って実行する刺傷事件の犯人とも、決定的に違う自分と思いたい。

ただ多くのケースで、差別する主体は差別に無自覚であるらしい、と知ると、不安な気持ちになってきます。

自分の根本には、
「楽しそうな女性たちが好き」
「女性同士のコミュニケーションが羨ましい」
という傾向があります。

※以下、「男性は〜」「女性は〜」という大きな主語で語ること自体いかがなものか、という問題もありますが、話が進まないのでご容赦ください※

男性よりは女性同士の会話の方が、
・話の脈略が無くても雑談を長く続けられる
・つっこんだりいじったりする中にもお互いへのケアが見られる
・肯定でも否定でも相手のヘアメイクやファッションにちゃんと意見を言う
などの傾向が多く見られるように思い、
自分は特に参加するでもなく、教室や稽古場の片隅で女性たちの会話をただ聞きながら「なんか良いな〜」と思うという、フェチのような物を、幼少時から持っていました。

狩猟時代に男性が狩に行っている間、コミュニティを維持していた女性の方が、現代でも仲良くなることやコミュニケーションが得意、という、今となっては眉唾な言説も信じていました。

そして
「女性同士のコミュニケーションが羨ましい」「楽しそうな女性たちが好き」
と思っている自分は、
「少なくともミソジニストではない」
とかなり短絡的に思い、安心していました。

が、
「楽しそうな○○が好き」は対象に「楽しそうでいること」を強要しないか、
或いは、女性はこの社会の中で、楽しそうに「せざるを得なかった」局面が多すぎたのではないか、
と考えると、ちょっと話が変わってきます。

「○○だって楽しそうにしてたし」という発言は、いかにも、何かの加害者が免罪の為に使いそうな言葉だし。

などと考える一方で、
創作や表現において最も大切なものはオリジナリティだ、
オリジナリティとはニアリーイコールでクリエイターのフェチだ。
自分のフェチを漂白して、そこに魅力は残るのか。
所謂ポリコレ的なことと、フェチのせめぎ合いの間にこそ、
作品の醍醐味が宿るのではないか。

だいたい、女性が楽しそうとか羨ましいとか言う以前に、
出来るだけ多くの婦女子を口説きたい、と思ってきた自分もいて、
そもそもお前大丈夫か。

そんなことを考えるでもなく考え続ける内、
「こりゃあちょっと、俺の手には負えないっす!」
みたいな気持ちになり、
脚本執筆にあてるはずだった福岡出張期間も、ホテルでひたすら「イカゲーム」を見続け寝不足になっていきました。

「イカゲーム」の何が良いって、一話60分以内に収まることですよね。
他の韓国ドラマは90分くらいあるから、途中で挫折しがち。
あと、「各ゲームの結末は大体予想できるのだが〜」みたいな感想が多かったけどこちとら、主人公が生き残ること以外は何も予想できず、「え、どうするの、これどうするの……」とずっと手に汗を握っておりました。拍手。

こうして晴れてめでたく、
小屋入り2週間前にして脚本は0ページ、という事態が出現したわけなのでした。

いかにも追い詰められて涙目になりそうなスケジュールですが
(皆はなってたかもしれない)、
申し訳ないことに何故か焦らなかった。

演出助手のけちゃ氏に「脚本はいつ出来る予定ですか」と聴かれて「それは神のみぞ知りますね」とか答えてましたマジすみません。

執筆の為に稽古オフにして貰った日の前日と前々日は、焼肉と焼鳥の約束があり、いつもなら流石に予定をキャンセルして執筆に励むふりをする所ですが、
焼肉も焼鳥も満喫してしまいました。

ただ、この辺りに、一つのヒントがある気もしていて、
「こりゃあちょっと、俺の手には負えないっす!」
と思った時点で、作家としての自分の中で、このプロジェクトは「負け戦」の様相を呈しており、
じゃああまり自分を「作家」と思わない方が良いのではないか、
そしてどういうスタンスで臨むのか見えるまで、ジタバタしない方が良いのではないか、
という(良く言えば)達観がありました。

「イカゲーム」も焼肉も焼鳥も(良く言えば)そのスタンスを探る為の時間だった。

この謎の脱力を経由したことが、結果的には作品の純度のような物を上げた感覚があるのですが、
いやでも普通、プロジェクトに臨む前に「負け戦」と考えることなんて出来ないよ、力入っちゃうわ、という話ですね。役に立たね〜。

とにかく今回、
「俺は30代女性をこう描きたいんです!」
という強いディレクションをするよりは、
「どうしたらいいかわからないんですよね……」
と弱音を吐いている方が何万倍も良い、とは最初から思っていました。

そこで次の

②自分事にしなかったこと

へ繋がるのですが、その話はまた次回。

たぶん続く。

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