福沢諭吉(福沢諭吉)
皆さんは福沢諭吉をご存知ですか?
そう、一万円に載っている人です。
2024年に渋沢栄一に変わりますが、それまで40年間もの間、1万円の顔になっている人です。
一万円とは言わずに、諭吉ちょうだいとも言う人がいます。
これから福沢諭吉について簡単に紹介しょうと思います。
生年月日:1835年12月12日~1901年2月3日(66歳)
1861年には妻の福沢錦(にしき)と結婚し、生涯で4男5女をもうけました。
子供は:
一太郎(長男)、捨次郎( 次男)、里(阿三)(長女)、房(阿房)( 次女)、俊(阿俊)(三女)、滝(阿滝)( 四女)、光(阿光)( 五女)、三八(三男)大四郎(四男)
福沢諭吉が関わった大学
かれは慶應義塾(けいおうぎじゅく)を創立した人物として知られます。 また早稲田大学の創立者・と仲が良かったこともあり、早稲田大学の創立にも関わっていたそうです。
慶應義塾は1858年に創立されました。
福沢諭吉の年表
1835年(0歳)
大阪の中津藩蔵屋敷(なかつはんくらやしき)で生まれる1836年(1歳)
父・百助(ヒックスケ)が亡くなり、母と5人の子どもたちは大分・中津(なかつ)に帰る1854年(19歳)
兄・三之助(さんのすけ)のすすめで、長崎で蘭学(らんがく)を学ぶ1855年(20歳)
大阪で緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学ぶ1856年(21歳)
兄が病死し、諭吉が福沢家を継ぐ1858年(23歳)
藩(はん)の命令で、江戸で蘭学塾を開く1860年(25歳)
幕府の軍艦・咸臨丸(ぐんかんかんりまる)でアメリカに渡る1861年(26歳)
幕府の使節(しせつ)にしたがって、ヨーロッパ諸国をまわる1866年(31歳)
「西洋事情」(せいようじじょう)初版(しょはん)を出版する1867年(32歳)
幕府の随員(ずいいん)としてアメリカへ渡る1868年((33歳)
塾の名前を慶應義塾と名付ける1872年(37歳)
「学問のすゝめ」初編(しょへん)を発行する1892年(57歳)
北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)の伝染病研究所(でんせんびょうけんきゅうじょ)の設立に尽力する1901年(66歳)
脳出血により死去
福沢諭吉が1万円札の肖像に選ばれた3つの理由
1万円といえば福沢諭吉、福沢諭吉といえば1万円札。これは今や日本の常識でもあります。ではなぜ福沢諭吉が1万円札の肖像に選ばれたのでしょうか?
1:著名な文化人であったから
2:発行枚数が多かったため「継続」された
3:特徴的で偽装(ぎそう)されにくい肖像だから korekaraniyorushixyakaitekisonnzaitonarumonohashinu
福沢諭吉の死因は脳出血
1898年9月、諭吉が亡くなる2年半前に脳出血で倒れ、危篤(きとく)となりましたが、この時は回復に至りました。しかし、1901年の1月25日に脳出血が再燃し(さいねん)、一週間の病床生活を送って、2月3日に亡くなりました。68歳でした。
諭吉のお葬式には15000人もの人が訪れたと言います。この頃には慶應義塾も学生数1000人を超える学校となりなりました。
福沢諭吉の名言
1:「進まざる者は必ず退き(さき)、退かざる(さかざる)者は必ず進む」
2:「人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある」
3:「農たらば大農となれ、商ならば大商となれ」
以上が福沢諭吉の簡単に説明した人生情報です。
あなたがこのノートを読んだ後、諭吉が財布に溢れますように!
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