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幸せになれないのなら自分を殺せ。

人はいつでも幸せなんだと思う。人はいつでも幸せになれるのだと思う。ただ、人は待っているのだと思う。誰かに「あなたは幸せになってもいいですよ」と許可を貰える瞬間を。そうでなければ、待ち侘びているのだと思う。「お前はもう幸せになれ」と自分を自分で赦せる何かを成し遂げられる瞬間を。

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誰かから「幸せになってもいいんだよ」と言われる経験は、稀だ。そんな出逢いは、人生に潤いを与えてくれる。とても貴重なものだ。有難いことに、私にもそんな出会いがあった。けれど、それでも私には、まだ私を赦しきれない何かがあった。誰かに幸せになりなさいと許可を貰おうと、最終的に幸せになる許可を出すのは、自分自身だ。人はいつでも幸せになれる。いつでも人は幸せだ。コップの水は既に満たされている。つまり、どのタイミングで私は幸せになります宣言をするかだ。私は幸せになります宣言ができたとき、人は簡単に幸せになる。

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もし幸せになれないのなら、不幸(あえて相対的なこの表現を使う)であるうちに、成し遂げたい何かがあるからだと思う。幸せになったら成し遂げられない何かだ。それを成し遂げるために、不幸というダシを使い、あえて苦しみを選ぶ。見方によっては、それは「不幸」に見えたり、苦行に見えたり、息苦しく見えるかもしれない。けれど、それは決して不幸ではない。幸せの一部として、不幸を利用しているに過ぎないからだ。苦しみの先には、必ず開ける何かがある。

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もし自分で自分を赦せないのなら、もう自分を殺すしかないのだと思う。乱暴な表現なのは分かっている。けど、自分を赦せないのなら、手っ取り早いのは、自分を赦せるくらいの何かをすることだ。その何かとは、自分を殺すくらいの覚悟を要する「何か」だ。

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想像してみてほしい。これをしたら死ぬかもしれない、これをしたら絶望を味わうかもしれない、ということが目の前にある。そして、自分の直観が「これだ!」「これをしろ!」と言っている。きっとこれこそが、「何か」だ。

この死ぬかもしれない恐怖に飛び込み、そこでぐちゃぐちゃになった末の自分は、どんな自分だろうか。きっとどんなに自分に厳しい人間でも、「もういいから。そこまでしなくていいから、もう幸せになりなさい」と許可を出せる気がする。少なくとも私はそうだ。

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その「何か」に出会えるかは、運とタイミングだと思う。人との出会いかもしれない。旅かもしれない。誰かが発する何気ない一言かもしれない。自分で変わろうと腹をくくれたとき、それは目の前に現れるかもしれない。

以前、小中学校好きだった、Hさんという女性に会ってきた。彼女は生きていた。幸せそうだった。それは、彼女が彼女自身を赦したからだった。大きな覚悟を持って、自分を殺したからだった。字面だけ見ると怖いけれど、出会ったとき、彼女は輝いていた。美しい真っすぐな花だった。

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少し、私の話をさせてもらう。今、オーストラリアの西海岸、フリーマントルという街にいる。オーストラリアを身一つで横断しようと3日前に、ここにきた。正直に言うと、私はびびっていた。自分を殺すつもりできたのに、いざ横断を目の前にして、一歩が中々踏み出せなかった。

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オーストラリアに来て3日目の今日、一人の日本人女性に会った。こちらに来て、初めての日本人で、彼女とは色んなことを話した。どうしてここにいるのか。なぜ旅をしているのか。日本では何をしていたか。久々に話せる日本語に、高揚し安心した。

話は盛り上がり「オーストラリアを車で横断したいね」と意気投合した。この言葉を発したのは、私だ。「ああ、言ってはいけないことを、言ってしまった」と思った。自分が今逃げようとしていることを、心は知っていたからだった。恐怖から逃げるために、目の前の女性を巻き込もうとしているだけだと、心は知っていたからだった。

猛烈に自分がださかった。ださくて、ださくて、ださかった。

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旅は自由だ。出会い1つで、旅がガランと変わることはよくある。その不確実性と柔軟性が、旅の醍醐味だとさえ思う。同年代の綺麗な女性と2人でロードトリップだ。道中、キャンプをしながら、色んな所に行けば、楽しいことは間違いない。けれど、俺はここに何をしにきた。俺はここに何を求めにきた。それを問えば問うほど、自分の中で何をするべきで、何をするべきでないかは明確になっていった。

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不思議な体験をした。弱腰の自分が出てきたとき、日本で応援してくれていた友人の顔が次々と頭をよぎった。テントをプレゼントしてくれたM。「これで美味しいもの食べて」と餞別をくれたR。森でテント生活をしていた時に送別会だと遊びに来てくれたK、似顔絵を書いてくれたM。東京で奮闘している戦友R。そして「いい男になってこい」とケツを叩いてくれたHさん。ブログやYoutubeを通しても、見てくれている人が大勢いる。

彼らの顔が次々と脳裏によぎると、自分が迷っていたことが本当に恥ずかしくなる。何でも曝け出してきた私だけれど、この事実だけは書くことなく、封印したいとさえ思う。

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明日、旅立とうと思う。オーストラリアの西海岸パースから、東海岸シドニーに向けて、ヒッチハイクで横断する。腹をくくれたと言っても、怖い。

横断のルートには、ナラボー砂漠がある。1200kmの間、何もない。

この砂漠の真ん中で降ろされて、水が尽きたら本当に死んでしまう。次の車が通らないかもしれない。不安要素は、とにかく尽きない。

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東海岸に昇る朝日を、希望にしたい。そこで朝日を見ている自分を想像したい。でなければ、怖くて怖くて、明日一歩を踏み出すこともできそうにない。

きっと、これを読んだ人は、「なんて生きにくい生き方なのだろう」と思うことだろう。けれど、これが俺の生き方なのだ。こうでもしないと俺は俺を赦せないのだ。


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