悪夢の起源

 八月二十八日(日)田渕

 「殿、お気を確かにお持ちくだされ」

 私そっくりの顔をした男が眠っているのを、浮遊した私が見下ろしていた。私によく似た男は明らかに顔色が悪く、今にも死にそうな顔をしている。

 マゲ姿の彼が着ている寝巻きには金粉が施されており、掛け布団にもきらびやかな鶴の刺繍がしてあることから、私によく似たこの男は、かなり身分の高い人間であることがうかがえた。そして彼を、老中のような男たちが数名で取り囲んでいた。

 家来A「殿、しっかりしてくだされ。あなたがいなくなったら、私たちはどのようにすればよいのですか」

 家来B「今殿に死なれては、我が藩はもうおしまいです」

 家来C「殿、イボ痔なんぞで死ぬとは情けないですぞ」

 家来B「貴様、情けないとは何ごとだ、口を慎め」

 家来C「発破をかけているだけだ。怒ってでも何でも持ち直してくれなければ困る」 

 家来A「殿はもはやイボ痔ではない。あれほどまでにひどいイボ痔など見たこともないと、医者も言うておったろう」

 家来C「では何だと言うのだ。まさか、あの占い師の言うように、農民たちの呪いだとでも言うのか」

 家来B「確かに奇病だとは言っておったが」

 家来C「バカなことを言うな。呪いだの幽霊だの」

 家来B「ならば何だと言うのだ。尻にイボができて死ぬなどという病は聞いたことがない」

 家来A「ええい黙れ、今はそんなことを言っている場合ではなかろう」

 「……ふん、バカな老中どもめが。今さら何を言うてももう遅いわ」

 耳元で、それまでの会話とはおよそ結びつかない言葉が聞こえた。私は上空から老中たちの様子をずっと見ていたが、彼らが発した声とは違う。なぜならその声は、女のものだったからだ。しかし、この部屋にいて会話をしているのは、布団の周りにいる老中たちだけで、他の家来は皆黙っている。

 家来A「医者が言うには、もう手の施しようがないようだ。ここまで大きくなったイボを切除するとなると、血を流しすぎて殿が」

 家来B「しかし、だからと言って指をくわえて見ておれと言うのか」

 家来C「こうなったらいちかばちか、私が殿のイボをばっさりと」

 家来A「やめなされ堀田殿、それでもし殿がお亡くなりになるようなことになれば、そなたの責任ということになりまするぞ」

 「ふふん、やれやれ。いっそのこと斬り殺してやればよいのじゃ」

 また人を嘲るような女の声がした。しかし老中たちには聞こえなかったらしく、反応する者はいない。他の家来も同じのようで、全員下を向いて押し黙ったままだった。どうして私にだけ聞こえるのか。しゃべっている当の本人はどこにいるのか。

 「尻にできたイボが大きくなりすぎて死ぬか。間抜け狸にふさわしい死に方よ」
 
 女の声がさらに続いた。これには私もさすがにカチンと来た。言われたのは私ではないが、他人とは思えないほど自分に似ている男が侮辱されるのは気分のいいものではない。

 「塗り薬に仕掛けがしてあるとも知らずに。おほほほほほっ」

 塗り薬に仕掛け? ということは、私の先祖は原因不明の奇病により尻にイボができて死んだのではなく、毒を盛られて殺されたということか。ならば何者かによる陰謀ではないか。

 「尻に毒を塗られて死ぬなどとは、なんと間抜けな男よ。これで藩主が交代すれば、長年の私の願いもようやく叶うというもの。おーほっほっほっほっ」

 「何ということだ。尻に毒を塗られたとは。おいっ、ちょっと君たち」
 
 私は精一杯大きな声で老中たちに呼びかけた。しかし上を向くものは誰ひとりとしていない。誰かの肩を揺らそうとしても、私の体は畳から浮いているため、あと少しのところで手が届かなかった。

 「おいっ、誰でもいい。堀田、堀田」

 堀田は布団の前に倒れかかり、おいおい涙を流している。何と忠誠心の強い男だろうか。私も目頭が熱くなる。

 家来C(堀田)「殿、殿が亡くなり申したら、拙者もすぐにあとを追いまする」

 家来A「何をバカなことを言っておる。堀田殿、お気を確かにお持ちくだされ」

 「そうだ堀田、お前まで死ぬことはない。それより毒を盛った犯人を見つけ出してくれ。やったのは大奥か侍女が、とにかく女だ。早くそいつを見つけ出し、私の無念を晴らしてくれ。堀田、堀田」

 しかし私の声が堀田に届くことはなかった。あと少し、あと一声かければ、堀田は私に気づくのではないかというところで目が覚めた。私は全身に汗をびっしょりかいており、何度も叫んだせいで喉はがらがらだった。

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