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昔から評論家と傍観者が嫌いだった

昔から評論家と傍観者が嫌いだった。創作活動こそ根源だ。クリエイトすることに意味がある。何も生み出せない人間の主観を並べるか、意見すら出せない人間のことを心底恨んでいた。でも絵心も音楽のセンスも自分は持てなかった。大した努力もしてなかった。自責なので後悔のしようがなかった。

高校生の時から毎年宣伝会議賞だけには応募した。毎年続けていればいつかは報われて人生が変わると本気で信じていた。100本は応募しないとと広告系のツイッターアカウントが言っていた。実在もしているかわからないけどコピーライターらしかった。

これは個人的な意見だがTwitterをしていればコピーをライトしているのではないだろうか。わざわざライターと名乗るの人たちを斜に構えて生きてきた。マズローの欲求段階説で考えるなら社会的欲求も承認欲求も、自己実現欲求まで3段階の欲求を達成していると感じた。強欲だなぁ。

実生活を想像できないこれらのアカウントがときどきまるで全世界を鼓舞するかのようなツイートを見ながら僕はせっせとコピーをライトしていた。100には届かなかったけど80個は出した。1つも通過しなかった。二度と宣伝会議賞には出さないと誓った。

大学を卒業した。行きたい会社もやりたいこともなかったので、アルバイトで適当に食い繋いだ。なんでもない夜勤を終え、家に帰ってテレビをつけるとお笑い芸人がお昼のニュースを意見していた。お笑い芸人がニュースに対して意見することに、誰も何も思わないのだろうか。

“売れた”お笑い芸人は少なくともどちらかが漫才かコントのネタを書き、それを表現することでお笑いを生み出す創作行為と言える。そんなクリエイトできる人たちに評論家のような行為をさせるなんてセンスがないと、センスのない人間が思っていた。

今年も宣伝会議の季節がやってきた。審査員全員が発表された。コピーライターもクリエイティブディレクターも多すぎなんだよ。そんなに数が多い人たちが俺を何者にもしてくれなかったと考えたら腹が立ってきた。今度こそ見返してやる。

夜勤で食い繋いでる人間が、言葉という創作活動1つで大逆転できるところを見せつけてやると、今回は息巻いた。夜勤が終わって廃棄の弁当を持って帰り、弁当食いながらコピーを書き続けた。

コピーの勉強を再度してみてわかったことがある。Twitterはコピーではないとも言えるしコピーとも言えそうだった。その言葉で受け取りての感情が動けばコピーだと誰かが言った。それでいうとこれまで俺が書いているツイッターは、コピーともいえないただの愚痴が並んだただの駄文の羅列だった。

無能の自覚をしてから、宣伝会議を諦めた年に書いたコピーよりも、断然よくなった気がする。今回はもしかするともしかするかもしれない。
2つも一次通過した。喜んだ。報われた気がした。ツイッターで審査員に通過したことをリプライで報告した。いいねも返事も返ってこなかった。

宣伝会議という雑誌に名前が載った。これはチャンスだ。あわよくば表彰式に呼ばれるかもしれない。人生を変えてやる。しかし二次通過はしなかった。

宣伝会議賞は中毒性がある。ひらめきだけで怠惰な人生を変える可能性を孕んでいる。おそらく来年も応募するだろう。そして可能性を追い求めて、諦めきれず、毎年応募する。突きつけられる現実と、創作活動がいつ報われるかわからないという不安定で曖昧な感情を抱きながらクリエイトしている。

その日、夜勤終わり。とあるサービスをどう売るかという仮想課題を自分で考えていると、とあるコピーを思いついた。これだ。もし来年同じような業種サービスがあればこれを応募すればいいんだ。固有名詞みたいな代替可能な言葉を入れ替えるだけでいい。
やった。絶対通過するぞ。


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