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選択肢を選ぶこと

 果たして、私はこれまで人生の中で重大な決断を行ってきたか?
 そう自問したときに、おそらくNoと答える。

 とはいえ、人生を左右するような重要な出来事はそう少なくはない。
 高専に進学することを選んだとき、大学院を決めたとき、博士課程に進む道を選択したとき。これらは、その後の私の人生の方向性にかなり影響を与えている。しかし、それらが重大な決断だったかと振り返れば、否。これらの行動は、決断と言うにはあまりに当然の帰結だったのだと思う。

 例えば、小川に浮かぶ葉っぱは、川上から川下へ、その流れに身を任せて移動していく。たまに川の淵に引っ掛かり停滞することはあれど、下流から上流にのぼることはほぼありえない。私の軌跡は、そんな葉っぱのようなものだと思う。
 もちろん、川の流れが分岐する場面もあるので、そこではどちらかを選ばなければならない。私はその都度、時流に身を任せていたのだと思う。長いものには巻かれろ、ではないが、流れには逆らわないスタイルである。

 今後の人生においても、その後の私のしばらくの方向性を決定づけるような出来事や、そのための判断をする機会はいくらでもあるだろう。しかし、少なくとも私一人の人生に関していえば、それは重大な決断にはならないような気がする。自分だけに影響する選択は、成功も失敗も含めて全て自業自得であり、ある意味で納得できるような気がするからである。

 では、どんなものが重大な決断になりうるのか?
 おそらく、他人の人生にも影響を与えるような行動は私にとって重大である。例えば、結婚は相手がいて成立するものであり、その結末は、良いことも悪いことも含めて自分以外の人間にも影響を与える。そこまでのライフイベントではなくても、他人の岐路に関わることは少なくないかもしれない。
 川で喩えるなら、川を流れる葉っぱではなく、川にダムを建造して堰き止めたり、流れを変えてしまうビーバーのような立ち振る舞いかもしれない。そんなとき、私は重大な決断を迫られていると感じるのだろう。

 ただ、この社会において、自分一人の人生にのみ関わるような選択などないかもしれない。私は両親のおかげで今ここに生きているわけで、そして、多くの人々に助けられて過ごしている。
 それに、ふとした一言が他人の人生の転機になってしまうこともあるかもしれない。だとしたらおちおち無駄話もできないかもしれない。

 逆にいえば、意識をしていないだけで、日々、私は人生において重大な決断をしているのかもしれない。ただ、それに自覚がないだけで。できればその方が気が楽だと思う。アドベンチャーゲームのように、選択肢がそのような形で提示されてしまったら、きっと私は立ち止まってしまうので。

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