世界が複雑になっているのか、自分が世界を複雑に見ているのか

昔は、世界はこんなに複雑ではなかった、と感じることがある。

そう感じる一因として、昨今の情報技術の革新が挙げられることはたしかだと思う(江戸時代に生きた人が受け取る情報と比べたとき、現代を生きる私たちは凄まじい量の情報を受け取っているとの話で例えられたりもする。)。

それだけではなく、様々な知識を学び、その知識をもとに経験を積み重ね、得た経験と知識を結合させる作業を日々繰り返していると、見聞きする事象に対する解像度が上がってくという感覚があり、この感覚も、世界が複雑であると感じるのに一役買っているように思う。

すなわち、世界が複雑になっているのではなく(「ではなく」というのはおそらく適切ではなく、正確には、「世界が複雑になり、また、」)、世界を眺める道具を手に入れた結果、世界の複雑さに気が付けるようになったということかもしれない。

世界の複雑さに気が付けるようになるというのは好ましいことである一方、複雑さが頭をかすめ、身動きが取れなくなる、何もしないが最適解ではないかと思わされる原因にもなる。

大胆な思考や行動を採るためには、世界の複雑さから幾つかの要素を捨象して、世界をシンプルに捉えることが必要になる場面もありそうである。

インプットする情報量を最大化しさえすれば、適切なアウトプットが得られるわけではなく、情報の質と量がバランスしなければいけないということだ。

世界を眺める道具を手に入れることと同時に、世界から受け取る情報を適切にスクリーニングするということが現代社会を生き抜くスキルとして欠かせない、ということなのだろう。

情報が生死を分けていた時代から、より多くの情報を得ることで優位に立つ時代、そして、情報を正しくスクリーニングし咀嚼することが人生の豊かさを決める、そういう時代に移行する過渡期という受け止め方もできそうだ。

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