「天才」という言葉との向き合い方

世の中には、自分を天才だと信じて疑わない人と、自分が天才ではないと自覚した人がいる。

自分を天才だと信じたまま死ねたらどんなに幸せだろう(揶揄しているわけではなく、心からそう思う。)。

しかし、悲しいかな、人間という種に生まれ落ちた大多数は、天才ではない(というより、天才というのは、相対的な側面を帯びており、少数のことを指すことが暗黙の了解になっているため、大多数が天才ということは原理的に難しい。)。

天才という言葉について定義することは、天才ではない私にとっては非常に難儀なことだ。

と同時に、ここで仮に「天才」を定義したとして、そこからこぼれ落ちてしまう、”天才”のことを思うと忍びない。

言葉を定義することは、有相無相から、ある種の意味をすくい取る作業だが、そこでは、色々なもの(温度感、質感、痛み、そのほか人間が認知あるいは想像できる様々な情報)が捨象され、失われてしまう。

言葉は現実を写し取ると同時に、現実から雑音をなくしてしまう。

「天才」を定義しない(できない)ことの言い訳はこの辺にして、

「ああ、私は天才ではないんだな」

と自覚した後に、どうするか、どう振舞うか、どう生きるか、どのような生き様を残すのか、が大事だと思う(大事だ、というよりも、そう思うことが、天才ではないという自覚と向き合う姿勢の一つになるはずだ。)。

自分が天才ではないことに打ちひしがれることもあるだろう(酒に溺れた煉獄さんのお父さんのように)。

あるいは、天才ではないなりに自分の立ち(太刀)振る舞いを模索することもあるだろう(自分が真の使い手ではないことを自覚しつつも、「日の呼吸」で無惨を追い詰める炭治郎のように)。

いずれにしても、自分のことを天才だと信じて疑わなかった日々と、天才ではないと自覚した後の日々では、大きな違いがある。

天才ではないと自覚してからが、その人の生き様ではないか。

そう言い聞かせ、言ってみれば適度に”酔って”いなければ、天才ではない現実と向き合うことは難しいかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?