余韻のない世界で

電車内で定期的に見かける光景がある。

車内で愛を育んでいた2人組のうち、1人が電車を降りる。
あるいは、仲睦まじく会話をしていた2人組のうち、1人が電車を降りる。

付き合いたてのカップルのデート終わりなのか、交際期間は長いがお互いの気持ちが冷めることがないのか、あるいは、久しぶりに会った友達同士なのか。
その二人が電車に乗るに至った経緯は様々だろう。

そして、片方に用事があるのか、これから仕事なのか、帰路に着くのか。

そのうちの1人が電車を降りる理由も様々だろう。

1人が電車を降りた後、車内に取り残されたもう1人が、すぐにその視線をスマートフォンに移す。

電車を降りた1人を名残惜しそうに見つめるでもなく、電車を降りた1人の残像を車窓に見つめるでもなく、手のひらくらいの大きさの液晶画面に焦点を合わせるのだ。

この一連の光景が、心に残る。

取り残された1人が、すぐさま液晶画面を見始めるのにも、これまた様々な理由があるだろう。

仕事に追われているが、2人での時間と仕事を切り離し、一切、スマートフォンを確認していなかったため、とりいそぎ、通知がないかを確認している。

連れ合いとの別れがつらく、スマートフォンを見ることで、その苦痛を和らげている。

なかば無意識に、1人になるとスマートフォンを取り出して一通りSNSやメール、お気に入りのウェブサイトを確認することが習慣になっている。

降りた1人に、今日の御礼のメッセージを送信し、また会える日を待ちわびている。

取り残された1人がスマートフォンを手に取る理由が私にとって明確ではない以上、その光景に、私が何らかの評価をするのは適切ではないのだろう。

それでも、その光景に「余韻のなさ」を感じずにはいられないのである。

例えば、映画館でエンドロールが終わり、館内がゆっくりと明るくなり、館内を後にしてスクリーンの前から立ち去るとき。

そこには、映画を鑑賞し終えた後の、余韻の時間がある。

一方、各動画プラットフォームで映画を見ると、エンドロールが流れている最中に、「この映画を見たあなたには、こちらの映画もおすすめです。」と別の映画の情報が流れてくる。

新たな情報が提供されることで、エンドロールを眺め感じていた余韻の色が薄くなる。

コンテンツをいかに消費させるかを考えたとき、余韻に浸らせている時間は勿体ないのかもしれない(短期的にはそのとおりだと思うのだが、長期的にみたときに、鑑賞体験への満足度、ひいては当該サービスに対する満足度に影響を与えそうな気もする。当然、サービス提供者は様々な要素を評価して、配信の在り方を検討しているはずである。)。

話を車内に戻して、私が、取り残された1人に「電車を降りた1人を名残惜しそうに見つめる」「電車を降りた1人の残像を車窓に見つめる」といったことを求めるのは筋違いだと思う。

ただ、その光景をみて、余韻のなさを感じ、余韻があるドラマチックな世界を、どうしても想像してしまうのである。

そして、現代は、余韻というものを欠いた世界なのだと、知ったようなことを思うのである。


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