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新年の「詩」(年賀状アーカイブ2007-2020)

ある時期、ごく私的な年賀状に、新年を題材とする近・現代詩を使わせてもらっていた。(親類などに出す家族名義のものとは別に、個人で出すごく少ない枚数の賀状)

2020年(令和二年)を最後にやめてしまったが、個人的なアーカイブとして、少しばかりの感想(+批評の真似事)を添えてここにあげておくことにした。(住所氏名はマスクしている)



2007年(平成19年)  谷川俊太郎「今年」

「今年も」が繰り返されたあとの、「決心はにぶるだろう今年も/しかし去年とちがうだろうほんの少し/今年は」が、たまらなく好きな一節。この詩人らしい巧みなリフレイン。
賀状の上部に引用している英文と拙訳は以下のとおり。

The essentials to happiness are something to love, something to do, and something to hope for. - William Blake
(幸福に不可欠なものは、愛すべき何か、為すべき何か、そして望むべき何か。 / ブレイク)



2008年(平成20年)  高田敏子「新しい年への願い」

「日々を新しくうけとめて/嬉々として私の小径をゆくこと」。これが新年の願い。
賀状の上部に引用している英文と拙訳は以下のとおり。

We must always change, renew, rejuvenate ourselves; otherwise, we harden. 
Johann Wolfgang von Goethe
(我々はつねに、変化し、更新し、若返っていないといけない。 そうでないと、我々は硬直化してしまう /  ゲーテ)



2009年(平成21年)  田村隆一「新年の手紙(その2)」(一部)

もしかしたら「新年」とは、いまの自分を肯定するための区切りなのかもしれない。
田村隆一は私のもっとも好きな詩人のひとりで、この詩は、ここにあげた詩の中でもっとも好きな詩。
賀状の写真部分下部に引用されている英文と拙訳は以下のとおり。

"Hope always spreads her wings in unfathomable seas."  R. W. Emerson
(希望はいつも、深い海の底で、その翼を広げる / エマーソン)


賀状の下部に記した簡単な解説(のようなもの)は以下のとおり。

「ある肯定の炎」:米国の詩人、W.H.オーデンの、「September 1, 1939」の一節からの引用。原詩は、「May I, composed like them / Of Eros and of dust,/ Beleaguered by the same / Negation and despair, Show an affirming flame. 」。日本語訳は、「彼らとおなじくエロスと灰から成っているぼく、/ おなじ否定と絶望に / 悩 まされているこのぼくにできることなら、 / 見せてあげたいものだ、/ ある肯定の炎を。」(中桐雅夫・訳)。田村のこの詩は、「たとえ『否定と絶望』に苛まれようとも、『肯定への意志』を抱いて行動せよ!」と、我々に語りかけている。



2010年(平成22年)  新川和江「元旦」

すべてのことが「あたらしく」感じられるのが、新年。そこに幸福を見出すのも、新年。「楽観主義とは意思のもの」である。
賀状の下部のちょっとしたコラム(のようなもの)は以下のとおり。

「A Happy New Year」。あえて直訳すれば「幸福な新年」となるんでしょうか。「新年が、貴方にとって幸福な年になりますように」。こんな願いが、この言葉にはこめられているんだと思います。ところで、昨年は「幸せって何だっけ?」なんてCMがリメイクされたりしていました。そんなこともあって、先日ふと、フランスの哲学者、アラン(1868-1951)の書いた「幸福論」なんて本を、久しぶりに読み返してみました。そこに、アランのこんな言葉を見つけました。「新しい年に際してあなたに望みたいのは、事態は万事ますます悪くなるなどと言ったり考えたりしないことである」(一部抜粋)。そして、「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである」という言葉もありました。彼は、「楽観主義という意志を持つこと」の大切さを繰り返し説いていたように思います。また、この本(白水社版)には、小説家の辻邦生が解説文を寄せていて、そこで彼は、「われわれ自身が幸福になるためには、自己に対してほほ笑み、周囲に対してほほ笑むことだ」と、(アランが言って いると)述べています。「楽観主義という意志を持つこと。自己と周囲に対して、ほほ笑むこと」。哲学者アランによれば、幸福になるためのコツって、どうやら、そんなところにあるらしいです。この賀状を読んでいる貴方にとって、どうぞ今年が、「幸福な年」になりますように。



2011年(平成23年)  葛西洌「1月の窓」(一部)

「1月の空に呼気を放とう」。新年の朝に、窓を開いて呼吸することの初々しさ、瑞々しさ。それは新雪の上に足跡を残すことに似ている。



2012年(平成24年) 安水稔和「今年は春が」

2011年の東日本大震災をうけての、その翌年の賀状。この詩は、1995年の阪神大震災をうけて書かれた「震災詩」のうちの一篇。詩人は、特別な年の、新しい春をうたった。
賀状下部のキャプションは以下のとおり。なお、安水さんは2022年にお亡くなりになっている。

*安水稔和(1931~)。神戸市在住。1995年、阪神大震災で長田区の自宅が半壊する被害を受けた。以来、これまで数多くの震災の詩を書き続けている。この詩は、 震災詩集の一つ「生きているということ」(1999年刊)所収



2013年(平成25年)  高村光太郎「冬」

「新年が冬来るのはいい」。この詩は、光太郎の別の詩『冬が来た』を思い起こさせる。その詩には「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」との一節がある。さらにこの詩は私に、スコットランドのバンド、アズテックカメラの『Walk Out To Winter』という曲の一節「Walk out to winter, swear I'll be there.  Chill will wake you, high and dry You'll wonder why.」を思い起こさせる。



2014年(平成26年)  松田幸雄「祝春歌」

「一年の計もまた元旦にない」。「未来がかすかにかおるのを/感じるだけだ」。新年に感じる、Let It Be(あるがままに)。



2015年(平成27年)  西脇順三郎「元旦」(一部)

人類の歴史も、人々の暮らしの歩みも、「天体の旅の巡り」。このスケール、パースペクティブが、この詩人の真骨頂。



2016年(平成28年)  佐藤春夫「新しき年の始めに」

「風を捉へ たこをあげ」、「地(つち)を蹴り こままはす」。「天地(あめつち)に子らは挑み」。新年の子どもらが遊ぶ姿に励ましをみる、詩人のポエジー。



2017年(平成29年)  石垣りん「太陽のほとり」

「宇宙の片隅で 輪になって/たったひとつの 井戸を囲んで」。戦争の絶えない世界での、平和への祈り。



2018年(平成30年)  川崎洋「祝詞」

日本の各地の、祝いのことば。声に出して「読む」ことで、新年のよろこびのテンションが爆あがりする。



2019年(平成31年)  石垣りん「新年の食卓」

新年の食卓を囲む喜び。家族だからこそ「新たに出会う」という、初々しい気持ち。



2020年(令和2年)  万葉集 巻五

「令和」の由来となった万葉の詩は、初春をうたった詩でもあった。「令和」は英語では「Beautiful Harmony=美しい調和」と表されるとのこと。
(太宰府市HP https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/reiwa/11391.html より)


●批評のようなもの

ここまでに、新年を題材とする13編の「近・現代詩」を紹介したが(2020年の万葉集の詩を含めれば14編)、実のところ、「新年」や「正月」を題材にした詩を書いている詩人は、それほど多くはないように思う。

2017年と2019年の賀状に使わせてもらった石垣りんは、やや例外的に「新年の詩」を多く書いているが、それはかつてテレビの新春番組の企画で十年ほどの間、そうした詩を(番組側からの依頼によって)書いてきたからのようだ。(『詩の中の風景』という石垣の編んだアンソロジーの中にそうした記述があった)

「新年」や「正月」とは案外、詩人にとってはそれほどポエジーを感じられないテーマなのかもしれない。「新年のよろこび」とは誰もが感じる「凡庸」な感情だからかもしれない(それゆえに「詩」として表現することが難しい)し、巷にあふれる仰々しい「新年の抱負」やら空々しい「年頭の誓い」やらに詩人たちが辟易していることによる反動かもしれない。(そういえば、谷川俊太郎には『年頭の誓い』というアイロニーに富んだ詩もあった)

そんな中で、ここに紹介した13編は、「賀状」というフォーマット、そのトーナリティに似合う、比較的直截に新年のよろこびを歌っている詩を選んでいる。(逆の言い方をすれば、一般的な「賀状」のトーナリティに合わない詩は、ここでは選んでいない)

普通に言葉にするだけでは陳腐になりがちな「新年のよろこび」を、名だたる詩人たちがどのように「詩」という形で表現しているのか。そうした視点でここにある詩を読んでもらうのも、一興かもしれない。

少しだけ私の思うところを付け加えるならば、こうして、10人強の詩人による、同じ「新年」を題材とするであろう詩を見比べてみると、それぞれの詩人の特徴が際立って見えてくるものだと感じる。

例えば、谷川俊太郎は私が思うに、「どんな詩でも書けてしまう」ような天才型の詩人だが、ここであげた『今年』は、巧みなリフレインと、多様な視点を律動的に提示していくことで、非常に高い、(例えば流行歌とも肩を並べ得るような)ポピュラリティを獲得している。

田村隆一の『新年の手紙』は、賀状に引いているのは全体のごく一部でしかないが、この詩全体では(荒地派らしくと言えばよいのか)田村の透徹した時代認識の下での巨大な「悪」や「正しさの不在」から出発し、さいごに「肯定へ(への意思)」を見せてくれる。私は賀状に「新年とは自分を肯定するための区切り」と書き添えたが、田村の詩が単なる夢想からの、(時に「お花畑」等と揶揄されるような)能天気な楽観ではないことは、念のためここに付記しておきたい。

佐藤春夫は、小説家としても広く知られた人物だが、彼は小説と詩を、明確な意思をもって、書き分けていたようだ。詩業では「秋刀魚の歌」が広く知られていよう。佐藤は「詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である」といった言葉を残しているらしいが、この『新しき年の始めに』に見られるポエジーは、そんな佐藤の「一部」なのであろう。幼な子の凧揚げや駒廻しにエナジーをみるイノセントを、彼もまた持っていたという事だ。

(了)

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