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日本古代史空白の150年を埋めておく(関裕二説を基に)(1/3)

266年~413年は、日本が中国の正史に登場しない空白の時代です。
自分なりのシナリオがあった方が、様々な説を理解しやすくなりそう(また楽しそう)ので、関裕二氏の説を主に参照しながら、シナリオを設定したいと思います。
日本の古代史(邪馬台国とその周辺)については、様々な説が出されていることは承知していますが、自分の腑に落ちることを第一とします。(マニア向けではありません。)

関氏の見解としては、「地形で読み解く古代史の謎(PHP文庫)」を参照しています。元となった「地形で読み解く古代史」は2016年の発刊です。
また、「古代史の正体(2021年刊)」も一部参照しています。


纏向遺跡に集まった土器

纏向遺跡から発掘される土器の多くは大和地方のものですが、15~30%ほどは外来の物で、広い地域から集まっています。その中では東海からが過半を占める一方、九州のものはほとんど含まれていないという特徴があります。


外来土器の出身地(数値は参照するものによって多少異なる)

これだけ東海からの流入があるのに、日本書紀での東海の影が薄くなっています。この件に限らず、日本書紀には以下の特質があると関氏は見ており、私も賛同します(基は上山春平氏等)。
・日本書紀は藤原不比等が藤原氏の立場を優位に見せるように編集した。
・そのため、東海その他、ヤマト政権発足に貢献した氏族や、滅ぼした蘇我氏の貢献をできるだけ消している。

纏向遺跡については、以前は3世紀(卑弥呼の時代)のものとされていましたが、今では4世紀前半の可能性が高まりました。これは発掘された桃の種について炭素14年代測定法によると従来は3世紀との判定でしたが、日本のデータとの照合によると4世紀前半の可能性が高くなるのだそうです。

その辺りについては下のYOUTUBEの48:00-50:50で説明があります。

また、炭素年代測定自体についての解説としては、下のYOUTUBEの03:00-06:30が比較的わかりやすいと思います。

ちなみに関氏は当然ながらこの事実は認識された上で、纏向に人が集まり始めたのは3世紀初頭としています。

纏向への集合の前日譚

なぜ各地域の勢力が纏向へ集合したのか、関氏の説明によると以下のようなものだったようです。

北部九州の隆盛

弥生時代後期の状況として、鉄を握る北部九州は、いち早く興隆しました。
地形的に、東の防備が弱い北部九州は、西側の防備が強いヤマト(現在の奈良盆地)を警戒し、ヤマトへ鉄が渡るのを阻止するため、日本海ルートの監視を出雲に託して鉄を流し、吉備もそのおこぼれに預かりました。

タニハの協力関係

関氏は、丹波(後に分離した丹後を含む)・若狭但馬を「タニハ」と呼んでいます。
弥生時代後期には、タニハは朝鮮半島南東部と交流が盛んになり、近江畿内(更には伊勢湾沿岸・尾張といった東海)にも先進の文物が流れ込むようになりました。
それが纏向に集まる原動力となり、それに慌てて吉備も合流したとしています。

空白の時代の大変動

安本美典氏は「データサイエンスが解く邪馬台国」で、中国では主に前漢から西晋(265~316年)の頃のものとして出土している各種は、北九州を中心に出土しており、その後、中国では東晋(317~420年)以後に出土している各種は、奈良県を含む畿内を中心に出土しているという特徴を指摘しています。
そのため、両期間の端境期(320~350年)に、何らかの大きな変化が生じたと考えられます。

つづく

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