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何者かわからないフィルムを求めて

家に眠っているフィルム、現像する際は注意しましょう。何も写っていないこともあります!

今回は少し前のどのカメラで撮ったかも覚えていない前のフィルムを現像店にお願いして現像をしてみた、というお話です。


Ⅰ. 高校時代の覚えていないフィルム

家には冷凍しているフィルムが4本あります。ほかにも20年、30年以上前のものがありますがそれはほぼ像が出ないモノでしょう。

今回はそのうちの残っている2本、Kodak ProImage100、Fujifilm SUPERIA X-TRA400を現像。

ProImageはある程度の予測がついていますがおそらく高校1年、高校2年のはざまのAutoboy3なのでは?と思いますが実際にデータを確認してみないとわからないです。この文はまだ現像をしているさなかに書いたもので本当に知りえていません。

X-TRAは完全にもうわからない謎のフィルム。X-TRAを最後に撮影しようと使い始めたのは2019年ごろ。直近の2022年までのX-TRAは大方現像できているのですがこれだけが全く不明で現像していないものになります。

これが自分のスナップ写真なのか、はたまた謎の友人に貸したカメラの撮影品の名残なのか、友達、あるいは旧友のポートレートなのか。全く持って見当がつきません。

Ⅱ.フィルムカメラとしての撮影の始まり

この項はほとんどが自分語りになっていますので写真が見たいって方はⅢのほうへ。

自分がフィルム写真として始めたのはチェキを含めるのであれば2011年。ちょうど震災の後の時期。東北に親戚がおり毎年夏の時期はそちらにいたため情景としては「ぼくのなつやすみ*1」シリーズのぼくくんと同じイメージです。その土地とゆかりのある自分は震災の時の記憶を残そうとチェキ以外でも小さいコンパクトデジカメをもらい必死に記録をしていました。


これがまた残酷な意味合いで、ぼくなつ4では最後に埋め立てエンドというものが存在しますが、ちょうど中学生の時期にいわき市や南相馬市の漁港周辺に行った際は残酷すぎるぐらいの「往時を偲ぶものは何一つ残っていない」を感じるものでした。これが自然、これが津波、と思い知らされる幼心ながらの衝撃でした。

(*1 ぼくのなつやすみシリーズ。主人公、小学生のぼくくんが夏休みの間に親戚の田舎町へ帰省?旅行と称して夏休みの間を自由に過ごすアドベンチャーファンタジーのゲーム。どれも最後に大人になった自分から見るぼく=自分のシーンが回想として流れ、時の流れとそれに付随する哀愁あるエピソードが流れることが有名。個人的には2、4が好きです。4はむずかったなあ)

その後2014年まではほとんどカメラには触れず、ちょっとした記念日にチェキを持ち出すぐらいでそのころは童心のままに生きていました。

35mmフィルムを使用し始めたのは2016年の終わりごろ。当時はまっていたアイドルがそのようなカメラをTwitterで勧められて使用した、というエピソードを聞き「なんだこのロマンあるカメラたちは」と感じたのが始まりです。なんとも薄いエピソードですが、趣味というのはそうしたささやきのようなものから始まったりします。

そのころは懐古趣味やのちのLiminal Spaceのような超現実的アート、作品について興味を示していた時で、必死にいろいろなジャンルの工学製品や美術品を本屋で見ては買い、を繰り返していました。超現実、というわけではないですがやはりルネマグリットの影響があったんでしょうか。自分ながらにそう思います。

その時に見たのが2016年、IZ*ONEメンバーが使用していたKodak DC3200、のちにNikon FM2、ミノルタのカメラでした。

初めにいろいろな本を買いあさってはブックオフに売り素人ながらのフィルムカメラの注意点や知識を深めるようにしました。しかもそれを卒業論文の研究の一部として使うぐらいまでに。

自分は知識がある程度成熟してから事を始める場合が多かったので、カメラについては特に慎重でした。それでも自分の中で資金をどうやりくりして選択して排除してを選ぶかを模索していた時期でもありました。

最終的にデザインどうこうよりもまずは「フィルムカメラを自分の腕で当たり前に使えるようになるまで初心者のカメラで、そして写真を極める」ということをモットーにしました。

まず購入候補に挙がったのはミノルタα303si。次がCanon AE-1。この際にはAFが使えて写真に専念できるという理由で、どこにでもいるようなジャンクの常連ですが一応中古品としてしっかりしたものを購入しました。どちらも手元にありかつまだ利用しています。

その際に初めて使ったフィルムが2017年、Fujifilm SUPERIA Venus800でした。そのフィルムたちの一部は現像しましたが他は残ったままで、今は何を撮ったのか全く覚えていません。

その後しばらくしていきなりNikon Fに行きましたが慣れずに自分がまだこれを使うには値しないとして売却。貴重なおにぎりの初期だったのに…そのころは資金難もあったため仕方がないことでもありました。

その後現在に至るまで様々カメラを見てきてようやくその「フラグシップをいたわり、使用できる状態」になってきたために最近、ブラックモデルのF2を購入しました。その時のブログもできたらここに載せると思います。

Ⅲ. 現像した写真を自分の昔を振り返りつつ背景として振り返る

日付のあるものがProImage100のAutoboy、それ以外がSUPERIA X-TRAのPENTAX SPⅡでした。現像後にようやくわかりました。
これがSMC Takumarで撮られていたこと。
文化祭の時期に撮られていたこと。
そうした思い出が徐々に現像してよみがえってくるこの悦びもまたフィルム写真の特性を生かすといいますか、付加価値、付随がなされた楽しみでもあると思いますよ。

特にこのAutoboyで撮るときは構図や絵に対してなど「いいと思える自分の写真を撮る」というイメージは全くありませんでした。というのもそれこそ完全に本物のポートレートとストリートスナップを混ぜたもの。なりふり構わず学校の教室や友人をいきなり撮ったり、風景を撮ったり、モノを撮ったり、、そうしたスピード感ある感じで撮り進めていました。公開はできませんがファミレスでの友人の驚いた顔なんかも収められています。

どことない普通の空。でもこれにもちゃんとエピソードがあります。
光の反射が残っていたものを撮ったものです。あまりきれいには写っていませんが、、
教室です。それも誰もいない放課後の、そして何より冬です。

このころ、やはり渦中の22年でした。詳しいことが言えませんが実は自分の学校は中高ではクラス編成が特殊で関わる人間と関わらない人間とでおおきくひらきのある編成で特殊でした。大学の講義のようなスタイルで選択式が取られていたのです。

それでも親睦を深めようと例年の場合は学年合同の親睦会が開かれて仲を深めるものでしたが21年のさなかにそのようなことはできず、22年でもできず、結局高校3年、受験期へと突入しお世辞にも仲がいいというクラスではありませんでした。

いがみ合いこそ起きませんが、それでも表面上、うわべの層のみの関係性でまさしく大学生同士の良く言われる淡白な関係性でした。

大学生となりやはりその表れが顕著に出てきます。特段いわゆる陽キャでもない浮いている人間にとって高校は特に好きでも嫌いでもない場所ではありましたがどちらかと言えば好きと思える時間のほうが多かったです。

よく年配の方や人生の先輩、とも呼べる人たち、やんちゃなヤンキー上がりから、まじめな優等生までいろいろな性格の持つ人たちを様々な場所で接しては記録、接しては記録を繰り返しどういう学生時代を過ごしていたのかなどを推察していました。

戦争後の復興から伸びる日本でがむしゃらに生きる少年、貧乏ながらも物事に幸せを感じられるよう努力し大学へ行く、学校など行かずに友達とゲーセン、バイクを買って乗り回す、東大を目指して何とか現役で入ることができたが卒業後大病も経験した、など。

年配の方が口をそろえるのは、というか認知症の方もいるのですが、大体、「戦争と学生時代、少年少女の時代」は記憶が原型ではないですがとどめています。そういう人たちの話を実際に聞きます。

この人はこうした場面のこういう事柄をよく憶えている、何が楽しかったのかを理解して話している、などがわかるようになりました。

学生時代を思い出して哀愁を感じている、と感じる人もいますし、甘酸っぱい話をしてくれるおじいさんもいました。

よく周りの人間に「人生2週目?」とか聞かれるのはもしかしたらそうしたエピソードを取り入れて当時の自分なりに何かを実行していたのかもしれません。将来の思い出語りの何かになればと。

それが実際どうなったとか、話を聞いたから、聞いてないからとかではありませんが、少なくともあの冷たい渦中の時期にそれだけ良い思い出、悪い思い出を残すかを自分なりにでも模索して詮索していたのかもしれません。

それからというもの、高校時代自分は周りの人間の行動、言動、癖、特徴に注視する場面が増えました。この人はこの時限後、階段であそこまで下りてそこから○○へ移動して〇階へ上がり、、とか、それこそ、教室のキーホルダーの千切れた金具が誰のかすぐに一目でわかるぐらいのある種「危険」とも呼べるレベルまで。でもこの話は別でしましょう。エンカでもした際に笑

これが若干心理学と経済学を同時に見る事になったきっかけの一つかもしれないですね、、心理学のみでは消費行動を深く探れない、経済学では人の認知について深く探れない、この両方を埋める必要がありました。

どうしても弊害は出ます。恐ろしく疲れるということです。写真をやっている人なら常に感性をフル、五感をマックスでいろんなところに目を向けるイメージ。それで過ごすとまあ疲れる。当時はまだ買ったばかりのコクーン万年筆にブルーブラックインクで日記をつけていたのでそれも残ってるかもです。コクーン、万年筆としては安いけどいいんですよ。左利きだけどね。

そうした観察を行っていたので別に人に対して好き嫌いというものがありませんでした。むしろ、性別関係なく判断するのなら「興味があるか、ないか」でした。興味がないことでも一応視野に入れて総合的に見ますがそこから抽出してみるときに興味があるものが優先されます。まあほとんど同じです。

なので別に誰とでも話そうと思えば、話せる、嫌いな人間など特にいない、嫌いと考えたり思ったことがない。そういう魂胆でした。でもこれもある種学が増えてくれば「何かの心の回避的行動の現れ」なのかもしれません。
ただ苦痛でもなく好きでそれだけ情報を取り入れているので取捨選択も必要になりますし精神が弱い、という自覚は特になかったです。

ここまで概念的な話になると読むほうも疲れてくるでしょう。壊れてしまったスキャナーの一部の結果を下に出しましょう。

この上がこの前亡くなったスキャナーEPSON Colorio GT-F700
でこちらが新規導入のEPSON Colorio GT-9400UFのテストクロップ。
色味こそだいぶ違いますが、これもスキャナー、ソフトごとの楽しみと言いましょうか。

スキャナーはソフトでも決まるといいますが一番は個人的にセンサー部だと思います。やはりカメラと似たものがありますね。
CanoScanはDRダイナミックレンジは非常に狭いものでしたがEPSONは比較的広い部類でした。しかし諧調性に難があり色味が転ぶと戻せなくなることがありました。

カラリオスキャナーの第1世代9400UFにはα-Hyper CCDが搭載されています。亡くなったF-700はその2型が搭載されています。
カラーノイズでは2型が勝りますが、処理性能や能力としてはほぼ互角、何なら初代のほうがきれいまである写りでした。

しかしこれが書類のスキャンとなると圧倒的に後期生産のモノが仕上がりがいいものになっています。そこらへんが大きく変わってくるのでしょう。当時は
フィルムスキャンは付加価値的なおまけ機能というべきに過ぎないものも十分製品として存在していたので、その流れを汲めば理解はできます。

こういう突然出てきたフィルムをスキャンして手軽に見る、という発想はさすがに現像時にデータ化までできる現代であればそう起こるものではないですが、そうした発見があるのもまた一興であると思います。

第2弾も続きで公開予定ですので時間はかかりますがお待ちいただければと思います。いやーこれを最後まで真面目に読んでくれる方がどれだけいることか、優しい方なんでしょう。


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