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昭和小牧の繁華街 上新町と上街道
私が生まれたのは、小牧口駅近くにあった吉田産婦人科である。しかし、生まれた時の記憶はなく、ここからは父の話をすることにしよう。
父は、小牧市上新町に位置した「寿司銀本店」という飲食店の末子であった。この「寿司銀本店」は、江戸時代から続く店だそうだが、当時は小牧にはなかったという話も伝え聞いている。
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百年近くも続く飲食店の家系に生まれたのが父であり、その父の子供が私である。「寿司銀本店」があった通りは、上街道と呼ばれる街道筋にあった。昭和四十年代、この街道筋は非常に賑やかで、多くの個人商店が立ち並び、人々が行き交う場所であった。
当時の街道沿いの店の特徴として、間口が狭く奥行きが長い建物が多かった。「寿司銀本店」の建物も元は旅館であったらしく、店の奥にはいくつかの部屋があり、至る所にトイレが設けられていた。二階にも小さな部屋が多くあり、子供の頃は親戚とかくれんぼをして遊んだ記憶がある。
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昔の小牧のこの辺りは、隣近所が仲良く、まるで東京の浅草下町のような雰囲気があったと記憶している。現在、「寿司銀本店」があった場所はラピオという建物になっている。小牧市が予算をかけて区画整備を行った結果、街道沿いの街並みは壊され、賑わいは失われ、人通りも少なくなってしまった。
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このような街で私は幼少期を過ごしたが、ほとんど記憶はない。三歳までの幼少期は、親戚やお店で働いて入大家族の中で過ごしたということだけが記憶に残っている。
そして、私には詳しいことはわからないが、ある事件が起きた。父が寿司銀本店の何代目かの跡取りとして店を切り盛りしていた時、祖父と喧嘩をし、家を飛び出すことになったのである。そして、移り住んだのが小牧市櫻井鳥居松のあたりであった。
本日はここまでにする。
あとがき
生まれて間もない時期で記憶はありません。
これだけの人に囲まれて育ったのにも関わらず、私は当面人との関わりを遠避けていました。
それは3歳前後に父が本家を出たためかと思います。
ただ、この頃(昭和50年頃まで)の小牧の街はとても賑やかで、人通りも多く、どこを歩いても知り合いばかりでした。
まるで浅草6区のような通り、飲食店、スーパー、おもちゃ屋、楽器屋、八百屋、果物屋、映画館。
人が自然に集まって作られた街でした。
それも遠い昔。
いまは行政が無理やりすすめた区画整理と再開発、いわゆる東京化がねじれをおこして街を破壊してしまいました。
残るのは思い出ばかりです
解説
上街道
上街道(うわかいどう)は、江戸時代に中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。「木曽街道」、「名古屋往還」とも呼ばれていた。
この文章は、私が書き上げた内容を生成AIを使い整えました。
また書き上げた内容は日本を代表する文豪 夏目漱石風にアレンジをしています。
#自分史
#小説
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