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僕がホームレス支援を続けるとき

「奥田さんがホームレス支援をされているキリスト教的な背景というか、動機は何ですか」。先日ある方からそう質問された。

質問の重さにたじろいだ。
僕がホームレス支援を続けるとき、その背景にはキリスト教があり、聖書があり、イエス・キリストの存在と教えがあるのは、全く確かなことではあるのだが・・・

「キリスト教は、愛の宗教です。イエス・キリストは、汝の隣り人を愛せよと教えられています。しかもその愛は、ギリシャ語で『アガペー』と呼ばれる愛で『無償の愛』とか『自己犠牲の愛』と言われるものです。
マザー・テレサを見たらわかるでしょう。自分を顧みずただ貧しい人に仕え、与え続けた。それが、クリスチャンというものなのです。それ故に私はホームレス支援を続けるのです。」と、答えたら愛の宗教と呼ばれるキリスト教の面目も立ったのであろうが・・・。そう答えることが僕には出来なかった。

確かに僕たちクリスチャンは「アガペー(無償の愛)」を大切なものとして常に認識すべきである。自己愛に完結してはいけない。
しかし、僕が毎週のパトロールの後、しがみ付くように認識する「キリスト教的背景」は実のところそれではない。
夜の公園や商店街の片隅で寝るおやじさんたちに声をかける。「大丈夫ですか」「がんばって」「寒いでしょうね」。決して適当に言っているわけではない。
心配を募らせつつ声を掛ける。
しかし僕はその数時間後、あたたかい部屋に戻り子どもたちが眠るベッドにもぐり込む。毎度布団に入り考える。
「僕は何をやっているんだろう」。
ついさっきまでいかにも心配げに、いかにも親身に声をかけていた僕は、布団に眠る。そこにはアガペーなどひと欠片もないように思える。

僕は、パトロールの度にアガペーを実践しているのではない。僕は、パトロールの度に自分がいかにアガペーから程遠い存在であるかを思い知らされる。
その時はじめて自らの「キリスト教的背景」にたどり着く。

「父よ彼らを赦し給へ。その為す所を知らざればなり」というイエスの十字架のことばが響く。アガペーは、「神の愛」と訳するのが適当だと思っている。
それは、人間には不可能な愛であり、そのような不完全な人間を赦す「神の愛」なのだ。
かのマザー・テレサもアガペーを実践したのではなく、実はアガペーによってやりきれない自分を赦され続けていたのではあるまいか。

「僕の必要としているキリスト教的背景は、そういうことです」と、その方には、お答えした。 





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