見出し画像

「無縁社会・孤独社会」が生み出した独特の課題


先日、重度の身体障害と知的障害がある重症心身障害者の支援団体「ミットレーベン・ネットワーク」設立50周年の記念講演で、相模原「津久井やまゆり園」事件についてお話しした。

この社会には(役に立つ)意味のある命とない命の分断線が引かれ、彼はその分断線を綱渡りのように生きていたんじゃないか。『自分は生きていていいのか』『役に立つか』と、私たちはみんなおびえているのではないか、と問いかけた。
その講演がこの度朝日新聞の記事になったのだが、今回の新聞の写真を見て、まあ、年を取ったなあと・・・・・

朝日新聞といえば、2011年震災直前、朝日新聞から頼まれてエッセイを書いた。その後、震災が起き、震災バージョンに書き換えたのが、当時の新聞にのった。あれから10年になろうとしている。
改めて、「無縁社会・孤独社会」 「自己責任」について問いたい。

以下が、当時の新聞記事の原文「タイガーマスク現象」に関する所感である。 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 2010年のクリスマス、児童養護施設に漫画『タイガーマスク』の主人公「伊達直人」名でランドセルの贈り物が届いたことが報道されると、各地に同様の寄付が広がった。寄贈された物品は、ランドセルの他にプラモデル、玩具、筆記用具、現金、商品券、食品、紙おむつ、金塊などがあり、年末から2月までで同様の寄付は1000件を超えた。
                                                                                         タイガーマスク現象 


2010年末から相次いだタイガーマスクによる贈り物の一件は、この社会は捨てたものではないという気持ちを私たちに取り戻させてくれた。
その一方で、「無縁社会・孤独社会」が生み出した独特の課題をも突きつけたように思う。 

「匿名」で支援物資が贈られたことに二つの意味を見る。
匿名性の保持は、それが名誉欲からの行為ではないことを証しした。
だが同じくこの「匿名性」が「直接出会うことを回避するため」だったようにも見えるのだ。
それは、困窮者に対してのみならず助ける側にも自己責任がのしかかる。このような自己責任の呪縛を解いて、困窮者と支援者が直接的な出会いへと踏み出せる仕組みを、どうつくるか。

多くの人が「困窮者を助けたい」と思っている。
また「しかし、深入りするのは怖い」とも思っている。
正直「出会い」は危険を伴う。ホームレス支援においてもそうだ。裏切られること、ウソをつかれることもある。こちらが逃げ出すことも。直接出会うと「かわいそうな当事者と善意の第三者」という「美しい構図」は崩壊する。生身の人間の出会いとぶつかり合いが起こる。そしてお互い少なからず傷つく。

しかし、この傷こそが、私たちをいやすのだ。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆(きずな)には「傷(きず)」が含まれているという事実だ。誰かが自分のために傷ついてくれる時、自分は生きていて良いのだと知る。同様に、自分が傷つくことによって誰かがいやされるなら、自分が生きた意味を見いだせる。傷を伴う絆が、自己有用意識を醸成する。

ランドセルを贈ることは容易ではない。費用がかかるし、何よりも勇気がいったと思う。本当にありがたく、あたたかい。だからこそ、タイガーマスクに申し上げたい。できるならば、あと一歩踏み込んで、あと一つ傷を増やしてみませんか。

もし子どもが「こんなもの、いらねえ」とランドセルをけとばしたとしたら、どうだろうか。支援現場では、そのようなことがしばしば起こる(今回そんな子どもはいないと思うので、たとえ話として聞いてほしい)。
「なんと不遜な子どもか」と思うだろう。しかし、対人支援というものは、実はそこから始まるのだ。叱ったり、一緒に泣いたり、笑ったり。
なぜ、贈り物をけとばさねばならなかったのか、その子の苦しみを一緒に考え悩む。人間の現実に肉迫せねばならない。だから傷つく。しかし、それがどんなに恵みに満ちた日々であったことか。「匿名」では、この恵みには与れない。

私たちの前には二つの道がある。傷つくことを恐れ、出会いを避けるか、傷ついても倒れない仕組みをつくるかだ。

「自己責任」は、主に困窮者に対して投げかけられたことばであった。
困窮状態に陥った原因も、そこから脱することも、本人の責任だと言い切る。「自己責任だ」と言えば、社会や周囲は「助けなくていい」ということになってしまった。自己責任論は、社会が無責任であること肯定した。
私たちは「自分の安心安全」を確保するために「あなたの自己責任だ」と言い放ち、困窮者との出会いを避けてきた。誰かのために傷つくことがなくなり、それで「安全」を手に入れたと思ったが、実は無縁化し一層危険でさびしい状態に陥った。

人間が本当の意味で自己責任を果たすには、周囲の支援、あるべき社会保障など、社会の側の責任が果たされることが前提とならねばならない。

ホームレスの人に「自己責任だから、ハローワークに行って働け」と言っても始まらない。登録する住所すらないからだ。ならば、社会の側が「住居は準備しよう。ごはんも食べてください」と支援したうえで、「これでハローワークに行かないのなら、それはあなたの責任だ」と迫る(そもそもハローワークに仕事があるかは別問題だが)。
結果、北九州では1200人( 2020年時点で 3500人 )が自立を果たされた。自分で人生の選択ができ、その選択に責任を持てること、それは人間の尊厳には欠かせない。自己責任を果たせるための社会的責任が問われている。

傷つくことの大切さを知りつつも、それを一人ぼっちで負うことは困難だ。困窮者支援は、実のところ「一人じゃ、つぶれる」ことを知っている弱い人たちが、それでも「何かやってみよう」と集まり、チームをつくることで成り立っている。いわば「人が健全に傷つくための仕組み」なのだ。
国によって犠牲的精神が吹聴された歴史を思い起こしつつも、他者を生かし自分を生かすための傷が必要であることを今日確認したい。

私たち自身、二二年間の路上の支援で随分傷ついた。
でも、「傷ついてもいいのだ」と言いながら私たちは歩んできた。
「絆は傷を含む」。そのために「仕組み」も作った。しんどいが、豊かな日々だった。
匿名のタイガーマスクは、本来「絆とは傷つくという恵み」であり、出会うためには「健全に傷つくための仕組み」が必要であるという宿題を、無縁の時代に生きる私たちに残したのではないか。





【 ほうぼくサポーター募集 】
  
毎月定期的なご寄付をくださる「ほうぼくサポーター」を募集しています。
「抱樸(ほうぼく)」は30年間、これまで築いた関係を切らずに、出会いから看取りまで、継続的に伴走支援を行って参りました。
皆さんのチカラが必要です。
同じ時代を生きていること、そのご縁をあなたと一緒に大切なものとさせてください。

寄付はこちらから>>>
http://www.houboku.net/webdonation

いただきましたサポートはNPO抱樸の活動資金にさせていただきます。