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【連載その3】 すべてのものは、はなはだ良い 【完】

さて、さて、その1,2と続いた奥田知志新年メッセージその3です。

「ドブネズミ」に対峙する聖書の宣言、神の思いとは?

3、天地創造における神の思い

そこで私は、そもそも神がこの世界を創造された時の思いとは何であったのかを確認しようと思います。
つまり、私たちが勝手な「名づけ」の挙句、差別し、貶(おとし)めた世界とは何であったのかを知りたいのです。それを無視して何を言ったとしても、「それは君たちが勝手に言っていることに過ぎない」と神様から叱られるだろうと思うのです。

そこで旧約聖書創世記にある「天地創造の物語」を読みたいと思います。
「俺は無神論者で神が天地を創ったなどロマンチストのたわごとだ」と思う人もいます。あるいは「すべては進化という必然的競争の結果だ」と考える人もいるでしょう。しかし、私は相当のロマンチストであり、おセンチ者でもありますので、神様が思いを込めてこの世界のすべてを創ってくださったと信じます。その方が幸せだと考えます。すべての事柄、出来事には、神の思い、すなわち愛がこめられていると信じるのです。私達の目にはどう映ろうとも、です。

創造物語は、一週間で世界が創造された創世記一章の物語と人間の創造に中心をおく二章の物語があります。本日取り上げるのは一章の方です。少々長いですが引用します。(どうぞ、たまには聖書を読んでください)

1:1  
はじめに神は天と地とを創造された。

1:2  
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

1:3     
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

1:4   
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

1:5     
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

1:6     
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

1:7     
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

1:8     
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

1:9     
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。

1:10 
 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。

1:11   
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。

1:12   
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。

1:13   
夕となり、また朝となった。第三日である。

1:14   
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

1:15   
天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

1:16   
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

1:17   
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、

1:18   
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

1:19   
夕となり、また朝となった。第四日である。

1:20   
神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。

1:21   
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

1:22   
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。

1:23   
夕となり、また朝となった。第五日である。

1:24 
 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。

1:25   
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

1:26   
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

1:27   
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

1:28   
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

1:29   
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

1:30   
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

1:31   
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

2:1     
こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2     
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3     
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

                                                                                                     
天地創造の物語 一章


七日目、最終日に神は安息を取られますから、天地創造は六日間でなされます。その中で繰り返し、繰り返し「神は、見て良しとされた」と述べられています。
六日間で六回、神はこの世界が「良い」ことを確認されたのです。
そして、創造の終わりに「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」とされているわけです。これが、聖書が描く世界の真の姿でした。

そんな神は、自分の創った愛おしい存在が「ドブ」呼ばわりされ、「アンコだから、仕方ない」などと言われていることを悲しんでおられるはずです。神が「良い」、しかも「はなはだ良い」とされたものを、私たちが勝手に侮蔑することは許されません。聖書は、数千年にわたってその事実を私たちに示し続けているのですが、私たちはそれを忘れ「ドブ」だ、「アンコ」だ、「心失者」、「意味の無いいのち」と言い放っているのです。これはいかんと思います。

「すべての物は、はなはだ良かった」のです。「すべて」という、この普遍的な響きに私は感動します。
この普遍的な価値を新しい年の始まりに確認したいと思います。
揺らぐことのない神の宣言からこの一年を始めたいと思います。

2020年となりました。オリンピックイヤーを迎えました。
その日のために日々鍛錬を続けるトップアスリートの活躍は、多くの人に感動を与えるに違いありません。
かつて「スポ根ドラマ」に涙した私は、この夏の感動にひそかに期待を寄せています。ただ、オリンピックは、勝ち抜いた人だけが参加できる場であることは事実です。そこには選ばれし者のみが参加できます。しかし、そんな「競争の祭典」であるオリンピックにさえ、躊躇(ちゅうちょ)がありました。
それは「参加することに意義がある」という言葉で示されます。この言葉は、第4回ロンドンオリンピック(1908)において、アメリカとイギリスとの対立が起こり、両国民の感情的対立が悪化してた時、教会のミサで語られたられた「オリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加すること」という言葉を、当時のIOC会長のクーベルタンがとりあげたと言われています。(「近代オリンピック100年の歩み」ベースボールマガジン社)

オリンピック好きの私ではありますが、分断、差別、ヘイトクライム(憎悪犯罪)にあふれる現在の日本社会の現実を踏まえると、私は、あえてこう言わねばならないだろうと思うのです。「参加することに意義があるに異議がある」。
人生には、参加できない日もあります。どうしても戸に鍵をかけて引きこもらなければならない時があるのです。
「参加しないと意味がない」。果たしてそうでしょうか。
共生社会が課題となっています。共に生きることは重要です。人はひとりでは生きていけないからです。しかし、共生できていなくても生きている、存在しているだけで「はなはだ良い」と神様は喜んでくださっている。共生を強制することはできませんし、「すべてははなはだ良い」という普遍的宣言が共生の土台でない限り、共生も参加も虚しいと言わざるを得ません。
参加できなくても生きている。すべての存在は、それ自体に神が「良し」とされたかけがえのない価値がある。それを私達の思いで貶(おとし)めてはいけないのです。勝手に「ドブネズミ」と言って蔑んではいけないのです。

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」
私達は、2020年をこの聖書の言葉をもって始めます。
誰が、なんと言おうと、どんな変な名前が付けられようと、この神のことばを覆すことは出来ません。
私達は、お互いを「はなはだ良い存在」として尊重したいと思います。
少々騒がしい年となりますが、しかし、心を落ち着けて神の天地創造の思いをかみしめたいと思います。
新しい年に当たり、すべての人の上に神様の祝福がありますように。

祈ります。 


お読みくださってありがとうござました。 
今年もどうぞよろしくお願いします。

奥田知志 2020年新年メッセージ    完


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