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魚の心臓をたべる

「しまあじの心臓ある?」

(うまく解釈できずに)ギョッとするのを通り越してフリーズしている私に、彼は重ねてこう言います。

「いや、あそこで泳いでるからさ」

「あ、はい、泳いでいますね」





私は生き物が苦手です。

ほとんどの生き物、犬と人間以外(それらも親密な関係性がないと無理ですが)には、触ることができません。

そんな私が「魚介類」に触ることができるのは、生き物だと思っていないからです。

ーーーーーもちろん最初のうちは、生き物だと認識していました。

「えー、やだ、こわーーーい」と頭の中で遊びつつ鰯や鯵に触ろうとしても、「無理無理無理無理無理無理無理無理!」とおたおたします。

「仕事だから」と割り切ってチャレンジするものの、ドバァと出てくる内蔵とその臭いに宿る「生命の名残」に打ちのめされたものです。

死んでいても、魚は生き物でした。

とはいえ。

そんなことでは仕事になりません。

「『出来ません』と『やれません』は禁止ね」

と入社後すぐに言われた私は、喉元までやってきた「勘弁してください」をペシペシと振り落とし、どうにかこうにか、鰯や鯵に包丁を入れ続けました。





ある日。

魚を〆る日がやってきました。

執行対象は、真鯛。

いわゆる神経〆(鼻から針金を入れて神経を破壊する〆方)ではなく、延髄をスパッと切って〆ます(進撃の巨人のイメージ)。

ダスターで目を隠します。

包丁の刃先を入れます。


ズドン


執行完了






とはいかず、悲鳴をあげました。

「がんばれがんばれ」

声援をパワハラに感じるくらいには、


や る し か な い


と、追い詰められていく。

みんなの視線が痛いです。

もう、仕事だから、な!


え ー い っ や ー !


ズドン


執行完了



そのとき以来、魚を「生き物」と認識することがなくなりました。

魚は「食べ物」です。





が、


「心臓ある?」

と言われたとき、魚が「生き物」だということを再認識しました。

そうです、彼らは活きています。

「ないですが、できますよ」

熟練の板前が言う。

「おっしゃ、じゃぁ、頼むよ」

なんだかすごく嬉しそう。

手際よくしまあじを引きあげ、慣れた手付きでさばく。

ささっとさばかれたしまあじから取り出された心臓(私はあの瞬間まで、あれが心臓だと認識していませんでした)は、美しく動いています。

「ありがと、いやぁ、うれしい」

ぺろっと、食べました。





その後、調べてみると、魚の心臓を食べるのは珍しいことではないと知りました。

地方によってはきちんと名前のつけられた料理として、魚の心臓がお店で提供されていることも。


魚は、食べ物ですが、生き物です。




こんな板前がいました。

「俺たちの技術はさ、もちろんお客さんのためのものだけど、魚のためのものでもあるんだ。無駄なく、美しく、食べ物にしてやらんと。可哀想だろ? あいつらの命に包丁入れてんだからさ」




料理人は、否が応でも、命と向き合います。

それが「仕事」なのはそうなのですが、でも、料理人もひとりの人間ですから、葛藤があります。

「せめてもの」

それはどこまでいっても自己満足ですが、「仕事」にありがちな「否が応でも」に向き合うことで学べることは多いのかもしれないです。



心臓は食べませんが……。

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