板前とお客様の不思議な関係
板前は一度お会いしたお客様の顔を忘れません。
さらに、すべてのお客様との会話の内容や、お好みのネタ、お好みのお酒、会話のテンポ、(裁量によりますが)ちょうどいい距離感も、脳に記憶します。
それは訓練をすれば誰でも身に着けられる「技術」ですが、なぜ板前にはそのような能力が求められるのかというと、
もちろん「お客様に喜ばれるから」ですが、私はそれが不思議で仕方ありませんでした。
「美味けりゃいいじゃん」
というのが私の飲食店を評価する完全な基準であり、(不快な思いさえしなければ)コスパがよくて美味しければ行きます。
来店時に店員さんの名前を見たことは一度もありませんし、「店員さんと仲良くなる」なんて考えたこともありません。
しかしお寿司屋さんは違います。
お客様に名前で呼んでいただくことが非常に多いですし、お客様が仲良くしてくださることも非常に多いです。
お寿司屋さんは、ある意味、不思議な世界なのかもしれません。
板前としての最初の教えは「ファンをつくりなさい」でした。
「頑張っている姿を見てくれている人は必ずいます。けれど、それは身内です。お客様の心を掴むのが、板前の営業力です。ぜひ勤しんでください」
入社後の研修時にいただいた言葉です。
その言葉をしっかり真正面からバシッと受けた私は、その後、そのことばかり考える、実行する、反省する、そういう日々を過ごします。
***
会社員として大切なこと。
新入社員の私にとっては、まず「立場を固めること」だと考えました。
そのために「新人らしい振る舞いの徹底」を心掛けます。
具体的には、
1.自分から挨拶
2.最初に出勤して最後に帰る
3.誰よりも明るく元気
この3つです。
これさえあれば周囲の人々に可愛がってもらえるという算段です。
幸い、これだけでお姉さまたちには可愛がっていただけました。(お姉さまが大目に見てくださっていただけだと気付くのは先の話です)
うまく溶け込めたと感じた私は、「私の行動は正しい」と極めて確信的な自信を持ちました。
そんな矢先。
お客様からこのようなご意見をいただきました。
「若い板前の、自信満々に商品を勧めてくる態度が気に入らない」
何を仰っているのか、私には理解できませんでした。
しかし、始末書案件です。
サービス業あるあるかと思いますが、こういったお客様からのご意見を頂戴しますと、始末書を書くことになります。
反省の弁を取り繕います。
本心ではありません。
すると、始末書を読んだ上司が、私のもとに駆けつけてくれて、
こう言われました。
「始末書読んだ。お前はバカじゃない。中途半端に賢いから、始末が悪い。いいか、このクレームは、今のうちにお前が一番学ばなければならないことを教えてくれてるぞ。納得してないだろ? 見りゃわかるよ。現に、お前が頑張ってるのは全員認めてる。いいか、素直にバカになれ。わかることもわからないと言え。お前には、謙虚さがない。だからお前にはファンがつかない。だからお前は嫌われる。学ぶ姿勢を持て。すぐに、劇的に変われ。お前にはできるよな?」
悔しかった。
他人(ひと)と比較して、誰より努力し、誰よりも野心を持って、仕事に取り組んでいると思っていました。
他人(ひと)のことなど考えずに。
***
即座に、行動を変えました。
1.学ぶ姿勢(教えてください!)
2.感謝(あっざーーーす!)
3.バカになる(わかりません!)
不思議でしょうがありませんでしたが、たったこれだけのことで、世界が変わりました。
その後、私は表彰していただく機会に恵まれます。
それは身の回りの方々が「バカだけど頑張ってるからあげてもいいよ」と上司に言ってくださったからでした。
嬉しかった。
嬉しくて泣いたのは初めてでした。
***
世界は、お客様の領域を含めても大きく変わりました。
お客様から話をしてくださる機会が、(それまではまったくなかったのにもかかわらず)劇的に増えました。
そして、次第に「好き」と仰っていただけるようになり。
毎週欠かさずに栄養ドリンクを大量に差し入れてくださるお客様。
個人的にお食事をご馳走してくださるお客様。
野菜をくださるお客様。
ヘッドハンティングしてくださるお客様なども。
正直、戸惑いました。
なぜ、こうまで変わるのか。
不思議でした。
そして、ここで冒頭に戻ります。
「すべてのお客様との会話の内容や、お好みのネタ、お好みのお酒、会話のテンポ、(裁量によりますが)ちょうどいい距離感も、脳に記憶します」
お客様は、「人と人」として、板前と接してくださっている。
それを思うと、お客様に関することを記憶しておくことが大切だと思いました。
お客様の個性は、十人十色。
個性がわからなければ、お客様の求めていることがわからなくなってしまいます。
幸い、板前は「記憶する訓練」を無意識のうちにしています。
「ご注文を記憶する」からです。
私は、ご注文を忘れてお客様に尋ねるのが嫌でしたので、常に完璧に記憶することを意識していました。
私は記憶力が良いほうではありません。むしろ非常〜〜に悪いです。
ですが、瞬間的に記憶する能力は、訓練により身に付きました。
さらに。
歴史の教科書に出てくる人物の名前はまったく覚えられないのに、お客様に関することは記憶できるようになりました。
なぜかはわかりません。
この「記憶する行為」が、お客様からの対応を変えた最大の要因だと思っています。
お客様は、覚えていてもらえると、嬉しいようです。
今でも私は、私のことを店員さんが覚えていたら正直嫌だな、と思っています。
行きにくくなります。
ですが、お寿司屋さんに限って言えば、「覚えていること」が非常に効果的だったのは間違いありません。
そして、その嬉しさがさらに会話をする機会を増やします。
それはとても有難かったです。
大切なことはいつも(多種多様なご経験を積まれた)お客様が教えてくれますので。
***
お寿司屋さんでは、「〇〇さんの握った寿司を食べたい」とお客様が仰ることが多いです。
驚かれるかもしれませんが、お目当ての板前の近くの席があいていないときに「席があくまで待つ」と仰ってくださるお客様もとても多いです。
そういう世界ですので、「ファンをつくりなさい」と教えてくださったのでしょう。
板前に限れば、お客様との会話を通して「お客様に喜んでいただくこと」が非常に多いです。
以前に公開させていただいた記事内に「板前には気軽に話しかけてください」と書いたのは、そのためです。
板前は、お客様との会話に慣れています。
なぜなら、会話を求めてくださるお客様が多いからです。
めっちゃ喋ります。
特定の板前に会いたくて来店してくださるお客様も多いですから、多くの板前は会話の手法を心得ていますし、話しかけてもらえると喜ぶはずです(私のように)。
それほど、板前とお客様の関係は、とても近いところにまで至ります。
場合によっては、板前からお客様を口説きにいくこともあります。
「お客様にファンになってもらいたい」と思っている板前は多いですので(出世にも影響します/お褒めのご意見)。
お客様の距離感次第ですが。
不用意に(無鉄砲に)板前から距離を詰めてくることはあまりないと思います。
あくまでも、お客様が中心です。
***
こういったことのひとつひとつが、当初の私にとっては、とってもとっても不思議でした。
板前は、人と繋がる仕事です。
それも、思うより密接に。
それは必ずしも良いこととは限りませんが、大人になるにつれ人間関係は「打算」の上に成り立つことが増えていくぶん、当時は人と繋がっていくことが楽しく感じられました。
収穫です。
必ずしも良いこととは限らない、のは板前として生きていればその限りではありません。
人と繋がれば繋がるほど仕事が楽しくなるのが、板前です。
人間関係に消耗した人ほど、逆に合っている職種なのかもしれません。
楽しくないから消耗していく、と思うからです。
とはいえ。
楽しすぎると、最終的に何もかも崩壊してしまう危うさを背負うこともあるのでご注意ください。
心身ともに崩壊するまで突っ走ってしまいます。
崩壊する直前に、「倒れてもかまわない」と本心から発してしまいます。
それはまた別のお話なので深くは触れませんが、またの機会に。
「自分が熱くなっているときに周囲が冷めている」を通り越して、「自分の熱を使って力づくで全員を熱狂させること」は可能です。
ただそれをすると壊れます。
お気をつけください。
それほど、板前は不思議な世界の中に在りました。
_________________
Twitterはこちらです(@STomoshido)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?