孤独感

なんとも言えない、フワッとした話だけれども…。

人にとって、孤独感とは、この感覚はそれぞれ違うのだろうか?人の心の中で生まれるそれは、それを感じた時に、まるでそうなることを決められたかの様に、それに支配される感覚になるのだろうか?

違うとすれば、それが心の中に生まれる条件が、それぞれ違う様な気がする。

それは、自暴自棄から生まれるもの?
それは、他人に影響を受けて生まれるもの?
それは、何かの情景を見た時?
それは、感情の流れによって生まれるもの?

人によって生まれる経緯は違うものの、それを感じる感覚は多くの人達が同じなのだろう。
でなければ、人と人が愛し合う事は、出来ない様な気がする。

「地に落ちたから見える、そんな景色もあるだろう」そう思い過去を振り返る。

私が初めて実感した孤独感はいつの頃だろう。
確か4歳の時、夕暮れ時のカトリック保育園で、友達が母親と手を繋いで帰って行った、二人の後ろ姿を見送った時だった気がする。

両親が共働きだった私は、19:00頃、学校が終わってから面倒くさそうな顔をして迎えに来る姉にいつも連れて帰って貰っていたのを覚えている。
今思えば、姉は大変だったろうなぁと思うけど、帰りはいつも夜道で、今の時期の夏の頃だけ、夕暮れが終わる明るさの中、帰れる事が嬉しかった。

友達は15:00頃、遅い子でも17:00頃に親が迎えに来て、明るい中帰っていく。
独り残された私は、教会の中でする事が無く、聖書を読んだり讃美歌を歌ったりしていた。
周りの大人に気を使われたくなくて、慰めて貰いたくなくて、意地を張って平気な顔をして、毎日独りで讃美歌を歌い続けていたっけ?。
そうやって自然にとっていた行動は、自分が可哀想にならない様に、必死に自己防衛をしていたのだと、今は思う。

自分の中の孤独感を必死に誤魔化して、逃げていたあの一日一日は、それと上手く付き合う方法なんて分からなくて、あの頃の私は途方に暮れていたのだ。
ただ漠然と、大人になれば平気になれる、こんな思いをしない様になる。
なんて甘い考えなのだろうと思うけど、あの頃は、それが私の希望だった。

「思い出と語れど、届かない声か。」そう言って少し納得する。

では、持て余したそれを、どうすれば良いのか?昔の私にも、今の私にも、シッカリと解らない。
ただ、今の私に出来ることは、ちゃんと悲しんで、全てを受け入れて諦めることだと思う。
未だ持て余しているそれを怖がらず、自分の一部として受け入れる必要があるとのだと思う。
そうでなければ、私はきっと、この先に進めないのだろう。

「この感情を踏み台に、間違った考えや絵図も、受け入れて一日一日生きて行こう」心の小声に、耳を傾けて意味を考え続ける。

しかし、あの頃から時はたち、もう数年で40代にもなるおっさんが、あの頃から全く成長していない事に、愕然とするのです。

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