回転寿司に映る、今の世の中

今までは「人に向けての経験談」を主に書いていましたが、
今後は自分の内に秘めた「ひとりごと」も書いていくことにします。

諸事情があり、7月は別府を拠点にしている。
(とはいえ週の半分近くは竹田に行っているのだけど)

大学入学から2年近く暮らしていたこの街。
別府市、大分県第2の人口12万人くらいの街。

東京とか大阪とかの大都市からすれば「田舎」。
でも人口2万人くらいの竹田からすればこの街は「都会」となる。

国道は片側3車線あるし、チェーン店も沢山あって買い物も外食もさほど困らない。
その中にも独自のカルチャーが根強くある、「面白い街」だ。


そんな前置きはさておき。
月末の金曜である今日、サークルの仲間と別府市内のとある某回転寿司チェーン店に行った。

回転寿司。
そんなもの竹田にはない。

「竹田にないもの」
それだけで楽しみになっている自分に、田舎の人間になったとも感じた。

そんな「非日常空間」に半年ぶりくらい?に足を踏み入れる。

時は花金の夜7時。
そういったお店が大盛り上がりを見せているのを想像するのは容易であったはずだ。だが田舎者の24歳大学生、そんな感覚も薄れていることに気づく。

そんな中でしばらく待つのは仕方ないとして、待っている間、そんな「非日常空間」を眺めていた。

30分くらい待ったかな、やっと自分たちの番号が呼ばれて席につくことができた。
(回転寿司がタッチパネル式になっているとか、そういうシステムについてはちゃんと把握している)

「やっとお寿司が食べれる♪」
と気分が少し上がったのは束の間で、そこからはなんか違和感の嵐。

まずこれは自分がHSP気質があるのもだけど、
まずお店の中の「音量」が大きすぎる。
金曜だからファミリーが多いのは仕方ないにしろ、子供たちのワーキャーがあちこちから聞こえてくるし、そんな賑やかな「空間」をコントロールするためにも店員さんも大声を出していて...。

そして今の回転寿司ってタッチパネルオーダーが普通だし、人の目線は常に流れているお寿司に注目が集まる。
ってなると、個人の考えていることは「自分の食べたいネタがあるかどうか」と「それがいつ来るか」に全集中力を使っているわけで、
「今目の前にあるネタと一緒に食べている仲間」への関心って正直薄れた。

ってなると、確かにそのネタを口にした瞬間は「美味しい」ってなるのかもだけど、その感触は一瞬しか残らなくって、また次のネタの捜索が始まる。
同時に、一緒に食べている仲間も「空気」になっている感が強くって、「これって1人で食べるのと一緒なんじゃないの」って思ってしまったよね。

じゃあ他のテーブルはどうなんだろう?って思って他を見渡すけど、
今日踏み入れた「空間」は、「コロナ防止のために座面を高くしている」ということでよく見えなかった。でも他も似ていたのかも。
自分自身はこの「コロナにまつわる系」ってものに強い違和感を感じている身なのだけど、(マスクもあまりしないし、移動も普通にしている)
なんだろう、「コロナ防止」ってすればなんでもOKになる感じ、すごく変だと思っている。(世のマジョリティーはそうなのだろうけど)


子供の頃に行っていた回転寿司といえば、
流れているお寿司も取りつつ、欲しいネタがあったら板前さんに直接注文する必要があった。子供の頃はそれが「小さな勇気」でもあった。言い換えれば、まだコミュニケーションを取る練習の場が用意されていたと思う。

ところが昨今の回転寿司。
効率化を求めてなのか、厨房と客席は完全に分離しているし、機械化も進んでほとんど店員とコミュニケーションを取ることは無くなった。
そこにコロナというものも入ってきて、その流れはさらに加速化していて...。

「なるべく人との距離を取れ」
「会話は慎め」
「当店は非接触の導入を進めております!」

といった言葉たちが溢れていたその「非日常空間」。
そしてそれを「スタンダード化」させようとしている今の世の中。
(正直ほんとクソくらえ)

きっと人々はもっとコミュニケーションを取らなくなるだろうし、それを見ている今の子供たちはこれが普通だと思って、コミュニケーションの希薄化がさらに進むんじゃないんだろうか。いや「希薄化」って言葉自体マイナーになるのかもしれない。
おまけに口に入れている食べ物が、どういったルートで自分の目の前にやってきているのか、そのバックグラウンドもよく分からなくなる訳さ。
じゃあ回転寿司なんて、もう行くなよって話だけど。

でも、「便利」なんだよね。
その便利さは自分自身も享受している時もあるから、何もこんな偉そうに言うのは傲慢なのかもしれない。

ただ、その「便利さ」と引き換えに、人間がこれまで大事にしてきたことがかなり淘汰されてきているなとも感じる。


今日こんなにも色々と感じたのは、きっと竹田での生活が自分の中でスタンダードになり始めているからなのかもしれない。

幸いにも竹田での生活では、近くの農家さんから直接野菜を買うことができたり、それを丁寧に調理してくれる人がいたりすることで、それらを美味しく味わうことができる。
そして、その食事を一緒に住んでいる人や他の仲間たちと「美味しいね」と話しながらゆっくりと味わう、という時間を共有することができている。
実に豊かな時間だと思っている。

これも「当たり前」と思ってはいけないのだけど、
竹田ではそういう時間が多かったからこそ、きっと今日の出来事は自分にとって衝撃的であったのだろう。

かといって、そういう「便利」はこれからも享受することはあると思う。
ただ、自分はどのような「時間」を大事にしていくべきなのか、改めて見えた今日の「非日常空間」での出来事だったのでした。

とりあえず8月からは、また竹田での生活が始まります。

一緒に行っていた仲間が読んで不快な思いをしていたら申し訳ない。
一緒に行けて良かったのは事実です。

〜長いひとりごと、おわり〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?