最適化の世界で

近頃Z世代に流行るもの、投資、タイパ、tiktok、
推し活、AI、コンサルタント。

これらに共通するのは「最適化」というキーワードです。

投資やコンサルは「経済的最適化」つまり「経済的に得をする最適解」として投資やコンサルが挙げられる。推し活やディズニーガチ勢のようなものは「行動最適化によって受けられるサービスを最大限にする」わけですね。

そしてその救世主として現れているのが「人工知能」やその他のサービスであったりするわけです。

昨今のトレンドはすべて「最適化」という言葉に集約されます。

まあ流行りの価値観としては仕方ないのですが、
問題は「最適化で人は幸せになれるのか?」という問いです。

最適化の幻想

研究職としての実感ですが、最適化は研究の鉄板ネタでいろいろなところでやられています笑
その理由は数学的にはそれなりに高度で、研究のモチベーションが保てることに加えて、最適化の方向を変えたら無限に研究ができ、なんとなく「役に立つ」感があるからです。

一方で最適化の研究はある意味で「出来の悪い」研究で、その印象に反して多くの場合使えない研究になることが多く、長年手を変え品を変えて、同じような最適化を長年繰り返している不毛な研究をしている方もいます笑

その原因の1つ目に問題設定の不可能性があります。

最適化は人間が与えた「何らかの指標」を最大化・最小化するように計算を行います。人工知能であればMSEロスやCross Entropy Loss等”真の値とAIの出力”を近づけるように最適化をしています。そのほかの最適化であれば、お金、距離、時間、幸福度等などを最大化するようにするのが最適化です。

身近な最適化がカーナビで、例えばグーグルのカーナビは一見確かに最短なんですが、物凄く細い道を指定してくるので実際には不便だったりします。
一方で、大きな幹線道路を優先的に使うほうが時間的な効率が悪くても楽だったりします。

つまり、「何を優先するか、何に価値を置くか」で結果も変わる。当たり前ですが重要な点です。

そしてその何を優先するかの「指標」が、多くの場合実際の人間の挙動や不確実性を考慮すると最適化の仮定が複雑になりすぎて計算できなくなる。

逆に簡単なモデルに落とし込んでも、現実との乖離によって適切な最適化でなくなる。

そのため、現実的な問題に適応しようとすると中々使えないことが多い。

第二に「最適化をさせるコスト」との兼ね合いです。

コンサルや研究者は皆自分の技術をもってより良い最適化ができると謳うのですが、これらの人にやってもらうにはまあまあの値段がかかります(それなりの数学使う専門職ですのでそれなりの単価です)。しかし、大体の場合重箱の隅をつつくような最大化だったり非現実的であったりで、効果は単価に見合わないことが多い(実際にあっても経験上の確率の低さから導入されない)。それは人工知能アプリケーションでもそうなんですが。。。

多くの職場においてそれなりの効率化はすでにやられていて、曲がりなりにもその場にあった最適化がされていることが多い。

更には最適化は多くの場合逆問題を解くのでものすごい時間がかかる。一度のみならず細かな条件変更を加えた最適化を常に解く必要があるため、実質計算コストが無限大です。

つまり「最適」にはコストと時間がかかる。そして「最適」でなくても自主的な努力である程度の問題は解決できてしまう。

つまり、高度な最適化は’コストに見合わない’ことが多い。

ディズニーガチ勢の例を考えてみましょう。1週間かけてみっちり計画を練るとすると一週間分のコストがかかっているわけなんですが、ディズニーガチ勢以外は「1週間」のコストはまあまあのコストです。

さらに、想定を超える人の数があった、熱中症になった、大雨が降った、売り切れが発生した、トラブルでアトラクションが動かない等など様々な想定外は多く発生します。するとみっちり計画しているほど最適とは程遠くなってしまいます。

これ、以前書いた日本軍の「失敗の本質」にも共通する項目なんですが、最適化しすぎると想定外について対応できない。

全体最適化の悪夢

これらの行動は「個人の利益の最大化」です。「自分が幸せになるには?」という観点から自らのリソースを割いて行動している。

個人の志向と行動の結果ですのでまあ本人たち次第としか言いようがありませんが、組織での「個人最適化」は皆さんご存知の様に害悪です笑

いわゆる「老害」と言われる人たちは「個人最適化」の極みみたいな人なわけで、それ故に謎の「俺俺ルール」が存在している。頭が硬いのも、人の話を聞けないのも「個人最適化」が身につきすぎて、その流れに沿ったこと以外が理解できなくなっているから。

だから世界は「全体最適化」を求めるんですが、こちらも大きな罠があります。

先に述べたように最適化には指標が必要ため、何らかの指標を定めその方向へ最適化する必要があります。組織であれば、「利益」、「離職率」、「従業員の満足度」等など色々あります。

そして、その最適化の方向を決めるのは結局のところ「個人」です。つまり全体最適は「個人の志向(多くの場合株主や経営陣)の最適化」にすぎない。

次にその最適化によって全員が幸せになるとは限らない。例えば経理が考える最適と開発部の考える最適は全く異なります。当然地域差や文化での違いもあります。

もし、全員が妥協し合った最適化が出てきて全体最適化ができたとしましょう。それは、ある意味で「全員の妥協の結果」の最適化でもあるわけで「全員が不満」な結果になります。また、それができたところで非常に安定性に欠ける最適化ですので外乱にとっても脆弱です。

更に最適化の範囲を広げるほど考慮に入れる項が増えて、組み合わせ爆発のような事態になって計算不可能になっていきます。

つまり、一般的な意味での全体最適化は不可能であって、むりやりの最適化は害悪ともなりえる存在でもあります。

全体最適化とファシズム

それでも個別の最適化を批判し、全体最適を強く推進する人たちは沢山いる。ではそういう人達がいう「全体最適化」とは何か?

一つは「部分を限定した最適化」です。最適化には方向が必要ですが些末と思える部分、悪影響を及ぼす部分を切り捨て、部分的な最適化を外挿する最適化です。

例えば「経営と営業の意見は最大限尊重して、経理や開発の意見は無視する」と経営と営業の人は幸せな組織になります。技術職や経理、人事なんてのは知らんというか「眼中」にない笑

技術職を切り捨てて営業しかいない会社になればいいわけですね(ファブレスってやつですね)。
そうするとその「最適化の恩恵を受けられる」人たちにとってはとても素晴らしい環境になります。それ以外の人には地獄ですが。

そうなると新たに組織に入る人は当然「素晴らしい環境に入りたい」と願う。するとその最適化された通りに行動する方が良いわけですね。最適化された個人を集めていけば、組織も個人も双方ウィンウィンにな関係になっていく。

この意味において、逆に「そういう価値観な人ばかりにしていく」というのがもう一つの意味として現れます。

異なる価値観の人は切り捨てて、その価値観にあった人だけを選べばいい。それは「個人の自由と意志」であってそれ以外は「自分達の素晴らしい最適化の恩恵を受けない哀れなやつ」と思うわけですね。

この様に「全体最適化」は多様性を後退させ、”ホモソーシャル”な組織を作り上げていきます。

つまり全体最適化された世界というのはとどのつまり「ホモソーシャル」な社会を作り上げることと同値です。

これってほとんど「ファシズム」と同じです。ファシズムは色々と定義がありますが、以下のような特徴があるみたいです。

a) ファシストによる否定

  1. 自由主義

  2. 共産主義

  3. 保守主義

b) イデオロギーと目標

  1. 伝統的な国家を基礎としない、新しいナショナリスト権威主義的な国家の作成

  2. サンディカリストやコーポラリストや国家社会主義者すらも含めて社会的関係を変革できる、統制され、複数の階級を持つ、国家的な経済基盤の新しい1種類

  3. 帝国を目指す

  4. 理想主義者、ボランティアの信念、典型的には新近代的で自己決定の、宗教には関係ない文化の実現

c)スタイルと組織

  1. ロマンチックで神秘的な側面を詰め込んだ、集会やシンボルなどの美学の構造

  2. 政治的な関連性の軍隊化や、党の民兵のスタイルや目標となった、巨大な動員

  3. 暴力の肯定的な視点と使用

  4. 男性原理の極端な強調

  5. 若者への賞賛

  6. 権威主義的でカリスマ的な個人による命令のスタイル

まさにシュンペーターが言うように「行き過ぎた資本主義は全体主義と見分けがつかない」というやつですね。

最適化の結果としての今という見方

この流れはハイエクの「隷属への道」で指摘した全体主義批判と大体同じです(その友達のポパーも同様の意見です)。

ではハイエクやポパーはどの様に最適化をみるかと言うと「過去の様々な要素を含みつつ、曲がりなりにも最適化された結果が現在である」とみなします。

例えば「ハンコ」の商習慣は世の中では悪と見なされていますが、これまでの日本ではハンコによって認証システムが最適化されてある意味で「ローカルな生態系」としてバランスを守っていた。それは全体最適化ではないけど日本というローカルな環境には最適だった。

はんこが悪になったのははんこのないグローバル資本主義が接続されて、ハンコのない環境への淘汰圧がかかっているからに過ぎない。

無闇に異なる価値観を導入するのは「ハブの駆除」と称して導入されたマングースみたいなもので、ハブを減らさずに環境だけが破壊された様にローカルな状況を理解しない概念の導入は生態系を破壊するだけです。結局欧米のサインみたいなは文化は流行らず「電子印」という文化に変わっていったのはみなさんご存知の通りです。

それぞれ異なる環境にはそれぞれ異なる最適化が存在しているということです。

一方で「現環境がベストではない」という認識も大事です。環境の淘汰圧がかかっているからといって同じことをやり続けたら絶滅するのも自然の理です。

つまり社会というのは進化論的なものであって「たまたまうまく生き残った、適応できた制度や慣習が残った結果」であるということです。

ファシズムの世界で生きる

ファシズムが消滅して80年。我々はすでに記録としてしかわかり得ません。我々がイメージするのは「コテコテの野球部」みたいな印象ですが笑、実はもっとソフトな活動だったのだと思います。

ある意味でいまの「投資しないといけない雰囲気だから投資する」みたいな「社会のふわっとしたブームや流行」みたいな「ソフトな活動」だった。

そこから色気をだすやつが現れて「投資しなければすなわち負け組」みたいな極端な発想になるとファシズムになる。

いまの世界にも「ファシズム的な」言動は多くあります。どこにそのファシズムさを感じるのかは人次第ですが(先の投資の話、トランプ、SDGsやLGBTなどなど)、至る所にファシズム性が潜むいまの世界で、ファシズムを否定するのもなかなか難しいのかもしれません。

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