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【長編】コバルトブルーと羊の海(プロローグ)

※一部暴力的表現を含みますが、それらを肯定・助長する意図はございません。あくまでフィクションとしてご覧くださいませ。



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 拝啓、お仕事中のお父さん、海外にいるお母さん。
 ごめんなさい。まほろは悪い子です。
 ほんの出来心で、非行に走ってしまいました。

 昨日の夕方、大学の講義が終わった後のことです。入学して一か月と少し、ゴールデンウィーク明けの一週間の授業を終えたところで、心地よい疲れに見舞われながら、土日は何をしようかしらと心を躍らせておりました。
 社会勉強のためにと始めた塾講師のアルバイトも順調で、今日は初めてのお給料日でもあります。お父さんやお母さんのお給金にはとうてい及ぶことのない金額ですが、それでも初めて自分で稼いだお金というのは、何物にも代えがたく、尊ぶべきものだと思うのです。
 明日はシーツを洗濯してお部屋に掃除機をかけて、それから外出して、スターバックスで気になっていたイチゴのフラペチーノを飲んで……と心の中で計画を立てておりますと、商店街の交差点にさしかかり、赤信号になったので両足のかかとをぴたりと揃えました。お気に入りの紺色のロングスカートがふわりと膨らみます。そうすると、交差点の角にあった「それ」が目に留まったのです。
 もしも青信号でしたら、わたしの意識がそちらに向くことはなかったかもしれません。赤信号で足を止めたのがすべての始まりでした。信号が青に変わるまでの間、物珍しい「それ」に、わたしはすっかり視線を奪われ、信号が変わると、引き寄せられるように近づいてしまいました。
 さて、先ほどわたしは非行に走ってしまったと申し上げましたね。具体的に何をしてしまったかというと、宝くじを買いました。
 ギャンブルという非行に手を染めてしまったのです。言い訳をさせていただくなら、決してギャンブル自体に興味があったわけではなく、一攫千金を夢見てむやみに購入したわけではありません。ただ「宝くじを購入する」という大人の体験をするために、宝くじを購入しました。
 目に留まった宝くじは、削ったその場で当たりが分かるものでした。他にもドリームジャンボと謳われた仰々しいものですとか、何やらたくさんの数字を選ぶものですとか、多種多様ありましたが、ぱっと目についたのが、かわいらしいヒツジの写真が載っている小さなカード型のものだったのです。
 わたしはそれを一枚、購入しました。売り場のおばさまが「九つのマスを削って、ヒツジの絵の数で当選金額が分かるからね。ぜひ当たりますように」と素敵な笑顔で、丁寧に教えてくださいました。わたしは特に何も尋ねなかったのですが、わたしが宝くじ初心者だということは、その道のベテランの方からすると一目で分かるのでしょう。あるいは、きょろきょろと売り場を見渡していた様子をご覧になっていたのかしら。赤に黄色にと、様々な色の飽和する場所が物珍しくて、つい。
 その場に長く留まる勇気はなかったので、購入したくじをお財布に仕舞い、心の臓をばくばくと震わせながら、わたしはお家に帰りました。道中カメのように首を縮めて周囲を警戒しながら歩く娘は、さぞ不審だったことでしょう。すれ違ったスーツのお姉さまが「誰かに追われてるの? 大丈夫?」とお声をかけてくださいました。ああ、誤解なのです、お気を遣わせてしまってすみません。でも何て優しい方なのでしょう。缶ビールが二本入ったビニール袋を手に提げていらしたので、華やかなる金曜日のご褒美でしょうか。わたしは若輩者ゆえお酒の妙なるものは分かりませんが、どうかお疲れが癒されますように。
 お家に着いて、いつも以上に周囲を警戒しながら玄関のドアを開けて素早く室内に滑り込み、きっちりと鍵をかけました。指さし確認もばっちりです。
 ひどく喉が渇いていたので、キッチンでグラス一杯の麦茶を飲みました。立ったままだなんてお行儀が悪いけれど、一人暮らしなのでお父さんに叱られることもありません。それからワンルームのお部屋の真ん中に置いたローテーブルに腰を落ち着け、宝くじのカードをお財布から取り出しました。どきどきと胸が高鳴ります。
 十円玉を構えて、いざ参らん。まずは一マス削ります。
 ヒツジが一匹。あら、可愛らしいデフォルメのイラストがお見えになりました。こちらはコリデール種でしょうか、お顔が白くて、温厚な性格の子が多いヒツジさんですね。
 隣のマスを削ります。ヒツジが二匹。同じイラストです。
 その調子で次々に削っていくと、ヒツジが四匹、五匹……メェメェと増えていきました。
 九つのマスを削って、ヒツジが九匹現れました。ええと、こちらはどういうことでしょう。カードの右下にある一覧表を見ればよろしいのでしょうか。
 ヒツジが九匹、すなわち一等賞。
 当せん金額は三百万円と書かれております。
 ……。
 さんびゃくまんえん。百万が三つ。小さな会社の株式譲渡がそのくらいだったかしら。最近では無印良品のお家もニュースで見たことがありますね。
 わたしは宝くじを見つめました。九匹だったヒツジが増殖して、プラズマのごとく脳内を駆け回っています。
 落ち着きなさい。ステイ、ステイ。ボーダー・コリーを連れてきますよ。
 かくなるうえは。
 わたしは本棚から、一冊の絵本を取り出しました。
 幼いころに両親に買ってもらってから何度も何度も読み返し、大切に仕舞い続けているそれは、藍染の絵本です。お仕事絵本で、専門用語にルビがいっぱい振られた文章は難しく、幼い頃は国語辞典を引きながらうんうんと読み込みました。物語も何もなく、藍染の歴史や特産地、手順を説明した、人によっては面白みのない絵本だと思います。でもわたしは、それを読んで、将来は藍染職人になりたいと思うほどに魅了され、他にも専門書やドキュメンタリー番組をたくさん見るようになりました。
 青よりも深い青。はるか昔からジャパン・ブルーと呼ばれ我が国の生活に浸透してきたその色は、心をきりりと正してくれるような美しさがあります。頭を悩ませる有象無象をじんわりと包み込んで解きほぐしてくれるような、重みのある安心感も堪りません。ライナスの毛布のようです。
 わたしは藍色が大好きで、伝統ある藍色を紡ぐ職人さんを尊敬しています。いつかはわたしも、こんな素敵な藍を生み出せる人になりたいと、夢見ているのです。
 まあ、お父さんはわたしが公務員か銀行員になることを望んでいるので、藍染職人になるのは、叶わない願いではあるのですけれども。
 こほん。話が少し逸れてしまいましたね。とにかく、その慣れ親しんだ藍染の絵本を読み、いくぶんか冷静さを取り戻しました。
 手元を見下ろします。
 ええ、これは何かの間違いでしょう。初めてのお給料日で浮き足立っていて、目がおかしくなっているのかしら。あるいは、自分が自覚しているよりも身体が疲れているのかも。カードの印字ミスだってさもありなん。
 わたしは立ち上がり、パジャマに着替え、お化粧を落としてベッドにもぐりこみました。夕飯がまだですが、不思議とお腹は空いていないので問題ないでしょう。
 疲れを癒すには睡眠が一番。わたしは目を閉じました。しばらく頭の中の牧場をヒツジたちが右往左往していましたが、やがて地面の草をまったりと食べるようになり、穏やかな光景が眠気を誘って、わたしは意識を手放しました。
 おやすみなさい、いい夢を。

 
   *

 肩を滑り落ちるブラのストラップが煩わしい。片手で位置を直して立ち上がると、アズサはボックスパッケージから一本の煙草を取り出して唇に挟んだ。丈長の白いTシャツはずいぶんとヨレていて、裾から伸びた足は不健康に瘦せ細っている。
「おい、ここでは吸うな。テメェのヤニは甘ったるいんだよ、ニオイが残る」
 男の低い声が部屋に響いた。抑揚のない、ざらざらと掠れた声だ。アズサは気にした様子もなくライターで火をつけ、床に無造作に置かれた赤いバッグを探った。
「あれ、替えのパンツない。持ってきてなかったっけ……ねえ、テツ」
「俺が持ってるわけねぇだろ。ったく」
 テツと呼ばれた男は溜息をついて、アズサの口から煙草を抜き取る。「あ」と不満の声をあげるが無視され、テツはかび臭い布団に尻をつく半裸の男を見下ろした。
 男はアズサを睨み、顔を赤くして唾を飛ばした。
「騙したな! ふざけるなよ、このアマ――」
「うるせェ」
 テツは煙草の先端を男の額に押し付けた。引きつるような悲鳴を上げた男が頭を抱えて丸くなったが、すぐに髪を掴まれて上を向かされる。
「社長さんよ。きっちり耳揃えて用意するって約束したよなァ。五百万」
 テツが囁くように告げた。怒鳴るでも馬鹿にするでもなく、平淡なトーンで語りかける。表情は穏やかですらあった。
 社長は震えていた。この男の恐ろしさが分かるのだろう。威嚇のために怒鳴り散らすのはただの粋がるチンピラだ。本当に怖い裏社会の人間は、一見するとその道の者には見えない振る舞いをする。
「昨日までの約束だったんだが、まあおたくの会社には世話になったしな。一日くらいは利息サービスしてやるよ。で、準備はできてるんだよな?」
 テツは火のついた煙草を、男の眼球にゆっくりと近づける。拷問じみた脅迫をする彼を、アズサはぼんやりと眺めた。男がこちらに向かって「助けてくれ」だとか、何かを喚いている気もするが、アズサにとってはどうでもよかった。
 もうとっくに見慣れた光景だ。金を借りたまま返さずに逃げようとする男に近づいて色仕掛けをするのも、こんな小娘の色仕掛けに引っ掛かる馬鹿な男をテツに引き渡すのも、その馬鹿が見るも無残な仕打ちを受けるのも。
 アズサはアルミサッシの小窓から覗く空を見上げた。夏に向かうこの時期の空はどんよりとして重く、星が見えることもない。
 ここ最近は昼間に外に出る機会もめっきり減っている。そういえばファンデが無くなりかけていたのだっけ。明日休みをもらえないか相談してみようと考えながら、アズサは二本目の煙草を取り出して火をつける。ピアニッシモ・ペティルのみずみずしい香りが、鉄錆の臭いに混ざった。


つづく

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