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母の日に寄せて

2021年5月9日、母の日。

4月の下旬に母の日の存在を思い出し、慌ててプレゼントをポチった。
実家を離れて10年以上、誕生日と母の日と、年に2回の贈り物をポチポチと贈っている。
いつかプレゼントのネタ切れになるのではないかと心配していたけれど、世の中には次々に新しい品物が生まれていて、どうやら当分は問題なさそうだ。

さて。初めて母の日のプレゼントをしたのはいつだっただろう?正直に言うと、はっきりとは覚えていない。

それに対してちゃんと覚えているのは、小学6年生頃の母の日。母が出かけている間に、ふと思い立ってカーネーションの鉢植えをお小遣いで買い、リビングのテーブルに置いておいたのだ。半分イタズラのような、思いつきのサプライズプレゼント。私はわくわくとしながら母の帰宅を待った。
帰宅した母は「あら…?!」と言って、そこから言葉を探したような間の後で、「ありがとう」と何回も言っていた。
私がその母の日を覚えているのは、言葉を探している間の母が、「嬉しさでいっぱい!」というよりも、少し泣きそうな顔をしていたからだ。

そこからもう、数えるのも嫌になるほどの母の日が過ぎ、自分自身も母親になった。

そうなって初めて、カーネーションの鉢植えを贈られた時の母の気持ちが、何だか違った風に思えてきたのだ。

あの頃の母には、「自発的に祝われたことへの驚き」があったんじゃないかなぁと思っている。
幼稚園や学校で「作りましょう」と言われて作ったプレゼントではなく、娘が勝手に考えて選んできたプレゼント。
息子(私の兄)からはもらったこともない、母の日のプレゼント。

あの頃、母は相当にしんどかったはずだというのも、今さらになって我が身のように感じることができるようになった。
夫側の実家の都合で住み慣れた土地を離れ、かつ慣れないパートを始めた頃。
妻としての顔・母としての顔に、職業人としての顔が加わった頃。
カーネーションを見るまで、母の日ということすら忘れるくらい忙しかった頃。

だからこそ、娘からの突然の贈り物に言葉を失ったんだと思う。

自分が母親に甘えて生きていた(そして今も甘えて生きている)自覚はあったけれど、その自覚のあり方も少しずつ変わってきている、そんな母の日。

ーーお母さん、ありがとう。

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