恋人を「豚トロハラミ」と父に紹介した日

今になって思うのは、父はけっこう照れ屋な人だったということだ。基本的には関西弁の気さくなおじさんで、度胸のありそうな顔をしているのだけど、じつは改まった場は苦手だったのかもしれない。

もう10年以上前、結婚前に恋人を両親に紹介することになった。待ち合わせは横浜駅。早めについた私と彼は、父の指定した場所に立っていた。ごみごみしたこの駅でスムーズに落ち合えるだろうか、会ったらなんて彼を紹介することになるんだろうか、紹介するときは何て言おうか、そんなふうにひたすら気を揉みながら待っていると、人混みの中から父、少し遅れて母が歩いてくるのが見えた。私が声を出そうと息を吸い込む前に、父はテンポ良く言った。

「おう、おったな。ほな行こか」

そうして父は、私たちの前でもまったく歩みを緩めることなく、そのまま歩き去っていった。何を言われたのか理解した頃にはもう父は駅から出ていこうとしている。予想外の展開に面食らったまま、慌てて父の背中を追いかけた。

しばらく歩いて道路に出て、距離がつまった頃、急に父が振り返った。そして、「この道で合ってるやろか」と彼に地図を見せ、彼の名前すら聞かないまま、2人で並んで歩き始めた。行き先は叙々苑らしい。

頭上では「大事なことを忘れていますよ」という警報がガンガンに鳴り響いていた。すでに2人で話し始めてしまった父と彼の会話は表面上は和やかではあった。だが、爆音でしつこく鳴り続けるアラーム音を2人して気にしないふりを決め込む妙な気まずさが漂っていた。

店に着席して一息ついたところで、改めて彼を紹介、なんて展開にもならなかった。店に着いてからも、父は軽快に話し続ける。明るく朗らかに、しかし間髪入れず話が続き、口を挟むタイミングが見つからない。あれよあれよという間に肉が注文され、焼き肉が始まり「おいしいだろう、おいしいだろう」と言われながら焼き上がった肉が皿に盛られていった。

私はだんだん、このまま肉を楽しんで帰ればいいんじゃないかという気分になっていた。とにかく彼を両親には会わせたわけだし、彼の名前はなんとなく知られているはずだし、なんだか雰囲気が和やかな気もするし、話していればそのうち彼の人となりもわかるだろう。いつまでも口を挟む機会を伺うより、もう切り替えておいしい肉を食べよう。

彼が同じ気持ちになったかを確かめるすべはなかったが、私は普段は口に入らない高い肉を堪能することにした。注文はほとんど父が取り仕切り、焼きも父が担当し、おまけに会話まで担ってしまっているので、食べる以外にすることがない。目の前に盛られていく肉をどんどん食べる。脂の乗った肉に心を踊らせ、私が内心大はしゃぎしていると、焼かれていく肉をじっと見つめる父がぼそっとつぶやいた。

「……の、名前はなんや?」

私は父の目線の先にある肉を見た。さすがに私にもわかるくらいに特徴的な見た目をした肉だった。

「豚トロじゃない?」

自信を持って答えたのだが、父はパッと顔をあげてはっきり否定した。

「違う、そんなわけあるかい」

自分のほうが詳しいだろうに、なんでわざわざ私に聞くんだろう。いつの間にか網の上に並んでいた他の肉は見た目だけでは判別できなかった。先ほど席に届いた肉はなんだったかと思い出してみる。

「じゃあ、ハラミかな」と投げやりに答えると、父が声を張った。

「違う、彼の名前はなんやって聞いてるんや!」

そして「ともちゃんが紹介してくれないから……」と小さな声でしおしおと付け加えた。

すでに彼を紹介するためのセリフは肉で上書きされてしまっていて、私はぽかんと父を見つめることしかできなかった。私が紹介できずにいることに気づいた彼は、「あの、申し遅れましたが……」と自ら名乗り始めた。焼肉はもう終盤もいいところである。

それから父は肩の荷がおりたかのように上機嫌になり「ここの肉はおいしいだろう」「遠慮せずにどんどん食え」と彼に肉を勧め続けた。彼もほっとしたのか、いつもよりもガツガツ肉を食べ始めた。私も満腹になるまでしこたま肉を食べ、さらにはデザートまでたいらげてしまい、お腹はパツパツだった。

高級焼肉に誘ってくれたのも、みんなのお腹がはちきれるほどの肉を注文したのも、払いを持ってくれたのも、父の声には出さない歓迎の意であったことが今ではわかる。おいしいものが大好きで、私たちにおいしいものを食べさせるのも大好きだった父は、今月旅立ってしまった。父の葬儀を終えて、「何がいちばんの思い出だった?」と叔母に聞かれたとき、最初に頭に浮かんだのは叙々苑の「豚トロハラミ事件」だった。あのときは気まずくて仕方がなかったあの日の出来事が、今はいとしくてたまらない。

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