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花束

先日、送った花が届いたと友人から連絡があった。
文面と旦那さんが撮った写真からとても喜んでいる様子が伝わってきた。

この喜びの裏にはとても可愛らしいエピソードがあったらしい。去年の誕生日、旦那さまに何が欲しい?と訊かれたので、1輪でも良いからお花が欲しいとリクエストしたら、萎れた花をプレゼントされたそうだ。思わず「え〜っ」とがっかりした気持ちを全面に表現してしまい、旦那さまを悲しませてしまったとのこと。だから余計にうれしいのかも、と。

書いていても思わず「ふふっ」と笑ってしまうほど、私にとっては微笑ましい。

旦那さまは安売りの萎れた野菜や果物を買ってくる方で、私の中では食べ物や生き物をとても大切にする人という素敵なキャラクターとなっている。だが友人としては身体に良く無いんじゃないか、新しいものを買えばいいのにと気に入らない。

私には心を込めて萎れた花を買ってくる健気さと、素直に落胆を表現する可愛らしさのハーモニーがなんとも愛おしく感じる。だからふふっと笑ってしまったわけだ。もっとも、ずっと一緒にいると、このようなすれ違いは日常茶飯事でご当人にとってはストレス以外の何者でもないかもしれないが。

友人夫妻はお二人とも大きな困難や苦悩を乗り越えてきた方々なのだが、だからこそなのかとても純粋無垢でけがれが無く、どこか浮世離れしていている。お宅にお邪魔するとご本人たちの雰囲気や、夫妻の心のこもったお料理やもてなしでおとぎの国を訪れたような気持ちになる。

なのに、である。喜ぶ友人の様子で私の心は動かないのだ。
不自然なほどにしーんとしている。
心に姿があるとすると、黙って佇んで眺めている感じだ。

世間で一般的にみられるような反応、「喜んでもらえて私も嬉しい!」みたいな感じにはならない。今回に限らずそうできないことをずっと後ろめたく思っていた。みんな本当にそんなことを思っているのだろうか、表面的に取り繕っているだけでは?それとももの凄く演技がうまいのか?、と疑問を抱いている。

だから友達には正直に「心が凍っていて心が込められないから、物という形で表現している」ことを伝えた。友人はこんな失礼な言葉を「その氷のハートの奥に活きのいいハートが保存されてるのでしょう。氷も役に立っているのよ。」と受け取ってくれる、私が私のままでいることを赦してくれる友人は何と有り難いことだろう。

なるほど。ありのままの私を受け入れてくれる人がいる、ということが私には現実味が無いのかもしれない。だからおとぎの国という表現となるのだ。

このブログの主旨である”Si je puis” 〜もし私にできるならになぞらえると、もし私がありのままの私を受け入れてくれる人がいることを信じることができたなら、何が起きるのだろう。何ができるのだろう。そこにあるけれども茫洋として姿の見えない答えに向かって、これからも問い続けよう。”Si je puis” 〜もし私にできるなら。

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